荒町(読み)あらまち

日本歴史地名大系 「荒町」の解説

荒町
あらまち

[現在地名]三春町荒町・日向町ひなたまち北向町きたむきまち持合畑もちあいばた小浜海道おばまかいどう松橋まつばし六斗蒔ろくとまき渋池しぶいけ四反田したんだ深田和ふかたわ六升蒔ろくしようまきといくち

三春城下六町の一つ荒町を中心とした行政地区。荒町は法蔵ほうぞう寺下の荒町見付から本宮もとみや(現本宮町)への街道および小浜(現岩代町)への街道口にあたる荒町四谷よつや(町末)の木戸までの坂に沿った二町三一間、道幅五間の両側町。会津領の蒲生郷治時代(慶長一四―一九年・元和四年―寛永四年)に建設されたという。初めあら町と書いたが(松下氏時代「三春城絵図」三春町史)、秋田氏入封後の正保三年(一六四六)みなみ町を移転して新南しんみなみ(のち新町)を建設したのに伴い、荒町と表記を変更した(三春町史)。荒町見付から専修せんじゆ寺門前まで三五間半の両側町をよこ町といい、荒町の東裏には用水池・家中屋敷・永倉(藩の米蔵)があり、町末の北裏には槍組屋敷があった。


荒町
あらまち

[現在地名]仙台市荒町

町の南東、南鍛冶みなみかじ町の北西、通町とおりまち(奥州街道)の両側町で、北は寺屋敷、南は足軽屋敷が並ぶ。町並長さは五町で(奥陽名数)、田町境には清水しみず板橋が架けられていた。開府当時はみなみ町西裏に割付けられていた(のちの元荒町)。「仙台鹿の子」によれば、寛永四―五年(一六二七―二八)頃、毘沙門びしやもん堂の前に移転しているが、これは若林わかばやし城普請に伴う城下南東方への第一次拡張期にあたって割付けられたものである。町方二四町の六番目に列し(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)おお町三・四・五丁目・さかな町など五ヵ町とともに戦国時代の米沢城下以来の伊達御供の譜代町である。米沢、岩出山いわでやま(現玉造郡岩出山町)時代にはあら町であったが、仙台に移ってから荒町になったといわれる。


荒町
あらまち

[現在地名]鶴岡市山王町さんのうまち

鶴ヶ岡城下の北東部、下山王社(現日枝神社)前の北東から南西へ延びる町並。町人町のうち最北部を占める。酒田街道・江戸(清川)街道へ通じる道筋にあたり、南端はうち川に架かる荒町橋を越えて下肴しもさかな町へ続く。「大泉掌故」によれば、町割は慶長八年(一六〇三)最上氏入部の頃とされ、酒井氏入部の時には当町・代官だいかん町より西側に家はなかったという。また元和九年(一六二三)頃の町割ともされる(「諸事聞合書」鶏肋編)。寛永二〇年(一六四三)の間数四七、慶安二年(一六四九)の家数四九(大泉紀年)

延宝六年(一六七八)の城下絵図では荒町一八〇間とある。天和三年(一六八三)の町割は二町半、家数一四九、男四七〇・女三四〇(「鶴ヶ岡町割家数人数書上」鶏肋編)


荒町
あらまち

[現在地名]松前郡松前町字松城まつしろ

近世から明治初年まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の東から北東にあたり、西はてら町。天明八年(一七八八)の松前東西管(河野常吉資料)に荒町とみえるが、「福山秘府」によると、当町に所在する八幡宮(永正一三年大館に造立)がこれより早く寛永二年(一六二五)「新町」に移転したという。同二〇年同社東側に新羅大明神小社、寛文六年(一六六六)同社西側に諏訪大明神小社が造立された。八幡宮の東側に真言宗阿吽あうん寺がある。


荒町
あらまち

[現在地名]小諸市小諸 こう 荒町・紺屋こんや町・八幡はちまん町・あさひ

小諸城の東方、北国脇往還沿いに荒町、その東北方に東寄りから八幡小路こうじ・紺屋町・牢屋小路ろうやこうじがある。往還の西側はほん町、東側は与良よら町で、行政単位としては与良町に属する。

元禄一六年(一七〇三)の牧野康重新知郷村引渡証文(牧野一郎氏蔵)に「高千百四拾六石 与良松井 内四百弐拾四石八斗八升六合 松井分」と記される松井分が荒町にあたる。延享三年(一七四六)「家数六拾軒 人数七百三拾人男女共ニ、町長サ四丁四拾八間有り」(小諸砂石鈔)、本町とともに問屋街として栄えた。


荒町
あらまち

[現在地名]丸岡町荒町

丸岡城の北、外堀外を東西に走る通りに沿う武家屋敷町。天保七年(一八三六)八月の円陵輿地略図によると、当町の外れから東へ二本の通りが延び、北側が鉄砲てつぽう町、南側が六軒ろつけん町である。さらにその東の長畝口のうねぐちまで侍屋敷町で、これらの町域は慶長一八年(一六一三)丸岡城下図に「侍町」と記されている。明治五年(一八七二)の調査によると荒町は家数三七(すべて士族)、人数二〇二。


荒町
あらまち

[現在地名]真岡市荒町

五行ごぎよう川右岸に位置し、現真岡市街地の北東部繁華地とその近郊の農業地帯。真岡三町の一つ。古来は芳賀はが波加はか郷、また大内おおうち庄芳賀里といわれたという。慶長二年(一五九七)浅野長政によって当町の町割が行われた。同三年宇都宮藩領となり、同六年真岡藩領。同一一年奉行藤井又左衛門らが当町内の上町・下町の整備を行い、同一八年藩主堀親良が奉行小島氏に命じ当町に横町を造成させたといわれる。荒町は新町に通ずる名称と考えられ、三町のなかでは最も新しく、町人町の町が北東に拡大され、独立していったと考えられる。


荒町
あらまち

[現在地名]酒田市日吉町ひよしちよう二丁目

町の通りの北側に東西に延びるなか町の通りの両側町で、西はさくら小路。天正年間(一五七三―九二)から慶長一七年(一六一二)の間に成立したといわれる。はま街道は最上川左岸宮野浦みやのうら村から右岸の日和ひより山下に上陸、桜小路から当町を通り北に向かって宿駅伝馬てんま町に向かう場合もあった。そのため問屋・宿屋・酒屋・質屋・髪結などが並び、宿駅続きの町として発達した。


荒町
あらまち

[現在地名]八戸市荒町

八戸城下の南西、表町通沿いに位置する町人町。東は廿三日にじゆうさんにち町、西は新荒しんあら町、南は町組まちくみ町、北は稲荷いなり町に接する。中央を南西から北東に街路が通り、東端と西端は鉤形となる。文久年間(一八六一―六四)八戸御城下略図に荒町とあり、町家とされる。八戸藩日記の延宝二年(一六七四)一〇月二六日条に「八戸荒町五日市、剣吉村六日市ニ願上申候ニ付被仰付也」とあり、五日市が開設されていた。明和六年(一七六九)にも新市が願出されているが、許可されなかった(「八戸藩日記」同年四月一日条)。文化一〇年(一八一三)の江戸表普請に一〇〇両を献金した商人がおり(同日記)、万延二年(一八六一)の江戸諸国津々浦々御調向手付面付帳(八戸市立図書館蔵)では大豆買方商人二人、塩小売座一軒がみえる。


荒町
あらまち

[現在地名]岐阜市加納安良町かのうあらまち

中山道に沿う両側町。加納二六町の一で、やなぎ町の東に位置。安良町とも記された。元禄八年(一六九五)頃の町絵図(太田家蔵)によれば、柳原やなぎはら木戸口から東に延び、途中南に折れ荒田あらた川に至る。南に折れず、そのまま北東方に向かう道がある。寛延二年(一七四九)の加納宿絵図では、荒田川に架けられた板橋(八幡橋)を渡り、東に折れると八幡はちまん町に至る。


荒町
あらまち

[現在地名]富山市荒町・蛯町えびちよう中央通ちゆうおうどおり一丁目・総曲輪そうがわ二―三丁目

富山城の西側に南北に延びる両側町で、南は西にし町、北は町に続く。町並東側からは北から八人はちにん町・蛯町・古寺ふるでら町に至る横道が延び、西側は富山城の外堀に沿って並ぶ家中屋敷と背中合せであった。本町のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図に町名がみえ、前田利次による町割当初からの町。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理によると、古来より夏から秋九月頃まで青草市が毎朝立ち、繁盛したという。安永八年(一七七九)の本家数四〇・貸家数五五で、三丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)。前掲旧事調理では竈数九四、男一四二・女一七一、出張番所・用心井戸各一、小路三、東之升形柵御門小橋は御上御普請で、ほかに橋二ヵ所。


荒町
あらまち

[現在地名]飯田市中央通ちゆうおうどおり

堀端の西、縦通りの町の最北に位置する。町のすぐ北をたに川が流れる。

古くは阿羅あら町・阿良あら町・安良あら町などの文字があてられた。

元和三年(一六一七)脇坂安元が飯田城主となった時には武家屋敷が既にできていた。

明暦三年(一六五七)美濃国八十一鱗くくり(現岐阜県可児かに郡可児町)の領主千村平右衛門が上飯田の箕瀬羽場みのぜはばから陣屋を荒町に移した。


荒町
あらまち

[現在地名]金沢市本町ほんまち一丁目・此花町このはなまち堀川町ほりかわまち

鍛冶かじ町の西に並行し、ほぼ南北に延びる両側町。町名は新たに町立てしたことにちなむ(金沢古蹟志)。寛永一四年(一六三七)の金沢惣町役付(「金沢市中旧記」加越能文庫)では当町の役は二ツ。元禄九年(一六九六)の書上(「片岡孫作筆録」同文庫)に本町とある。文化八年(一八一一)の家数一一八(うち武家・小者二九)、肝煎は宗兵衛、組合頭は室屋善兵衛・白尾屋市右衛門。


荒町
あらまち

[現在地名]加賀市大聖寺荒町だいしようじあらまち

鍛冶かじ町の東に続く町人町で北陸街道に面する両側町。延宝元年(一六七三)の河道付替えまで大聖寺川は当町北裏を流れていた。寛永年間(一六二四―四四)の大聖寺町家図(伊東家蔵)に町家が記され、町役は西部が四分役、東部が三分役。天明(一七八一―八九)以前の大聖寺図(金沢市立図書館蔵)には「下新町」とあり、ゆみ町との間に木戸を描く。下新しもあら町はなか町を上新町と称したのに対するもので、新町とは新たにできた町の意という(藩国見聞録)


荒町
あらまち

[現在地名]滑川市荒町

北陸街道に面した両側町で、東はなか町。西のおお町に隣接して慶長年間(一五九六―一六一五)に成立したところから、かつてはあら町と称した(滑川町誌)。天明三年(一七八三)の滑川町惣絵図(田村家蔵)には「あら町」とみえる。大町・瀬羽せわ町と並んで特権的有力町人が多く、家数は元和元年(一六一五)に三一(「松村記録」滑川町誌)、天保一二年(一八四一)の滑川町見取絵図(滑川市立博物館蔵)では三五。宝永五年(一七〇八)の町役御免許御入紙面(長福寺文書)には「あら町分持高当り屋敷町、町口三間半、後(ママ)弐拾間之歩数、七拾歩」とあり、拝領地(諸役免除地)となっている。


荒町
あらまち

[現在地名]笠間市笠間

城下の西部にあり、高橋たかはし町境から涸沼ひぬま川のおお橋まで一町四六間(「里数改帳」茨城県歴史館蔵)。道の両側に店舗が並ぶ商人町で、慶長一八年(一六一三)藩主松平康長の時に城下拡張のため創設されたが(笠間城記)、正保二年(一六四五)の常陸国笠間之城下絵図(内閣文庫蔵)には高橋町の延長として高橋新たかはしあら町と記される。また大橋には土塁があり、町番所が設けられている。

宝永二年(一七〇五)の笠間町町方軒別改帳(笠間稲荷神社蔵)によれば、屋敷数五四(一軒口七、半軒口四七)・人数二四九、馬一一。


荒町
あらまち

[現在地名]福島市荒町

やなぎ町の北、奥州道中に沿って南北に延びる両側町。柳町と同様に文禄(一五九二―九六)の町割とされ、大森おおもり城下から町名を移したものという。延宝元年(一六七三)の福島町検地不納高反別帳写(福島市史)によれば、反別二町五畝余、高二〇石五斗余。宝暦一一年(一七六一)の巡見使止宿ニ付諸事控帳(穀三文書)では、町の長さ二町一五間、家数九六。同年の福島惣町留帳(福島市史)によると竈数九六、寺二、役馬一三・立馬一。


荒町
あらまち

[現在地名]魚津市本町ほんまち二丁目・新宿しんじゆく

馬出うまいで町の北を東西に走る北陸街道の両側町で、通り町八町の一つ。北陸街道は西端で南に折れておか町からおお町、東端で北に折れて真成寺しんじようじ町へ続く。北はてら町。嵐が強いためあらし町とよばれたが、のち荒町になったという(下新川郡史稿)


荒町
あらまち

[現在地名]五戸町 荒町

五戸町の南に位置し、東はしん町、北はおお町に接する。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に荒町とあり、家数は二〇。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図では上大かみおお町の南東にみえる。うえ町に属する。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「一丁四十三間、幅三間半。


荒町
あらまち

[現在地名]下館市おつ 荒町・さかえ

西にし町の西、かた町の南の木戸外に位置する。寛永一六年(一六三九)松平氏入封時に新たにつくられた。同年の下館城図(田宮家蔵)に町名があり、江戸道(結城街道)菅谷すがや村へ西進し、西町境を堀が南流する。元禄一六年(一七〇三)の乍恐口上書を以申上候(中村家文書)に「町百性之儀、段々と困窮仕候故町ノ住居も不相成、荒町或ハ菅谷村など連々引込、四門内ノ百性殊ノ外内証衰微仕、人数も減し候」とあり、当時は町家からはずれていたことがわかる。


荒町
あらまち

[現在地名]大館市十二所 十二所町

十二所じゆうにしよ町の西南端部に位置する。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「荒町」、幕末の十二所士族屋敷図に「荒丁」とある。東西に走る道路沿いに形成され、東はかた町、北は下新しもしん町と接する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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