上島村(読み)かみじまむら

日本歴史地名大系 「上島村」の解説

上島村
かみじまむら

[現在地名]浜松市上島一―七丁目

早出そうで村の西、馬込まごめ川右岸に位置。西は三方原台地に連なり、南は島之郷しまのごう村、北は馬込川を挟み長上ながのかみ有玉下ありたましも村。慶長六年(一六〇一)の伊奈忠次手形(上村家文書)の宛所には「うえ嶋延命寺」とあるが、「うえしま」と読むのはほかに例がなく、「かみじま」の訓が通用している。天正一八年(一五九〇)一月二五日の伊奈忠次知行書立写(紀伊国古文書所収藩中古文書)に「上嶋之内国方村」とあり、慶長六年の江馬与右衛門宛の知行目録(江馬家文書)は「上島本田之内」九八石余とある。江馬与右衛門は引間ひくま城の飯尾氏の家臣江馬氏の流れをくみ、永禄一一年(一五六八)に死んだ江馬時成と、時成の子で慶長一一年に死んだ江馬一成は当村の光福寺(現黄檗宗白華寺)に葬られた(寛政重修諸家譜)


上島村
かみじまむら

[現在地名]静岡市中田なかだ一―四丁目・中田本町なかだほんちよう馬渕まぶち三―四丁目・石田いしだ三丁目・稲川いながわ一丁目

稲川村の南に位置する(天保国絵図)。村名は中島・下島・西島に対するもので、旧安倍あべ川の枝流の間にある地形(島)に由来するとの説がある(修訂駿河国新風土記)。戦国期は上島郷と称された。永禄八年(一五六五)一一月七日の今川氏真判物(増善寺文書)によると、「上嶋郷」内の浮免二町などが増善ぞうぜん寺領として同寺の宗佐に安堵されている。元亀四年(一五七三)一〇月二一日の武田家朱印状(写、判物証文写)は神尾左近丞に上島のうち六貫文を、天正二年(一五七四)三月二九日の武田勝頼判物(写、土佐国蠧簡集残篇)は岡部長教に上島のうち一三九貫文を与えている。


上島村
かみじまむら

[現在地名]辰野町大字上島

横川よこかわ川にその支流の小野川が合して南流する右岸一帯で、横川谷の入口にあたる。

天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳の上伊奈領の部に村位は下、村高は「弐百七拾八石八斗弐升四合 かみ嶋」とある。

村内に根橋ねばし垣之内かきのうちなどの地名があるが、天正六年(一五七八)の上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、古くは上伊那宮所みやどころ郷に属していたと考えられる。


上島村
かみじまむら

[現在地名]枚方市上島町上島東かみじまひがし町・養父西やぶにし町・養父元やぶもと町・牧野北まきのきた町・西牧野にしまきの三丁目

交野かたの郡に属し、淀川左岸沿いの沖積低地に位置する。船橋ふなはし川が村北端の楠葉くずは村との境を西に流れ、淀川に注ぐ。南は下島しもじま村・養父村。淀川に沿って京街道が通る。もとまき川島かわしま村のうちで、寛永年間(一六二四―四四)上島・下島両村に分割され、川島新家上の町と称されていた地が上島村となったという。川島村の名は淀川の川中島であったことに由来する(大阪府全志)


上島村
かみじまむら

[現在地名]浜北市上島

豊田とよだ郡に所属。中野島なかのしま村の北西、天竜川の中洲に位置する。江戸時代の領主の変遷は中条なかじよう村に同じ。天正一八年(一五九〇)正月二五日の伊奈忠次知行書立写(紀伊国古文書所収藩中古文書)に「上嶋之内 国方村一円」とみえ、徳川家康の代官伊奈氏は同所七九俵六升余を含む一千六二五俵を江馬与右衛門尉に与えている。


上島村
うえじまむら

[現在地名]嘉島町上島

西は上仲間かみなかま村、北はなまず村と接し、南は緑川によって下益城郡と境をなす。「和名抄託麻たくま郡に上嶋郷があり、古代には託麻郡に属していたと思われる。延慶三年(一三一〇)一〇月九日のさいれん譲状(阿蘇家文書)に「うへしま」とみえるが、この地を示すかどうかは不明。嘉暦元年(一三二六)一一月一八日の肥後上島郷地頭尼妙法同子息義広連署和与状(同文書)によれば、上島惟秀・子息惟幸と上島郷地頭尼妙法・子息義広との間に、当郷の惣領職などをめぐって多年相論があったが、当郷内の字石代・出納町・卅六坪の各五反、計一町五反の田地等を惟幸に譲与する条件で和解が成立した。


上島村
かみのしまむら

[現在地名]東村上之島かみのしま

利根川左岸の低地にあり、南は石納こくのう村。香取海かとりうみは中世以後しだいに閉塞して多くの砂洲を生じたが(香取郡誌)、その一島に天正一八年(一五九〇)に落城した江戸崎えどさき(現江戸崎町)の城主土岐治綱の家臣石田駿河守が城主を守護して移り住んだと伝え、石田氏は徳川氏の小見川代官から開田許可を受け、堆洲を開墾して新田を開き、上之島と名付けたという(佐原市史)。江戸時代は天領で十六島じゆうろくしまの一であり、上新島かみしんしま六ヵ村のなかにあった(同書)元禄郷帳には無高とあるが、天保郷帳では六二七石余に増加する。


上島村
かみじまむら

[現在地名]掛川市中西之谷なかにしのや

原野谷はらのや川の支流西之谷川の流域にあり、西は中島なかじま村。慶長九年(一六〇四)の検地時から文化年間(一八〇四―一八)に至るまで家数は三戸という(掛川誌稿)。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高一四石余。正保郷帳では田方九石余・畑方四石余、掛川藩領。国立史料館本元禄郷帳でも同藩領。延享三年(一七四六)幕府領、明和五年(一七六八)掛川藩領となる(文政一二年御高等書留など)。「掛川誌稿」では同藩領。旧高旧領取調帳では同藩領一四石余。


上島村
かみじまむら

[現在地名]南国市田村たむら

物部ものべ川下流右岸西方に位置し、香美郡に属した。北は立田たてだ村、東は物部村、南と西は上田かみた村。天正一六年(一五八八)の上島下島原寺三村地検帳によると上島村は一三町五反三二代四歩が検地され、畠が九町四反四二代一歩、ほかは田および屋敷である。うち荒が六町七反二七代二歩あり、「定芝」(未開墾地)・「荒芝」(開墾されたが荒地化した土地)とされている。


上島村
かみじまむら

[現在地名]滑川市上島

上市かみいち川東岸、早月はやつき川との複合扇状地に位置し、北西は下島村。正保郷帳では高三五二石余、田方二三町三反余・畑方一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高五八二石、免三ツ九歩(三箇国高物成帳)。所属組は文政八年(一八二五)上条組、天保一〇年(一八三九)以降中加積組。


上島村
かみじまむら

[現在地名]長岡市摂田屋せつたや一―二丁目

豊詰とよづめ村の南、村松むらまつ(太田川)沿いの村。天正村名考(温古之栞)に「上の島九軒」と伝える。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高五四石八斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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