上桂荘(読み)かみかつらのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「上桂荘」の意味・わかりやすい解説

上桂荘 (かみかつらのしょう)

上野荘(かみののしよう)ともいう。山城国葛野郡(現,京都市西京区)の桂川右岸にあった荘園。1229年(寛喜1)の検注目録によれば,総田数16町余。10世紀中ごろ(天暦年間)の成立という。開発領主は桂川の津守津公。津公,兼枝,玉手則光と相伝し,997年(長徳3)則光は中司職(内容は下司職同様と考えられる)を留保して領家職を東三条院大納言局に寄進。領家職を継承した内大臣阿闍梨清厳は,七条院(後鳥羽天皇生母)に本家職を寄進。本家職は,修明門院,四辻宮善統親王へと伝わり,1289年(正応2)後宇多上皇に譲渡され,上皇は在地支配を聖無動院道我にゆだねた。一方,四辻宮は90年に妙円にも上桂荘を与え,これが領主権をめぐる相論の原因となった。1313年(正和2)後宇多上皇は上桂荘を東寺に寄進。以後,南北朝初期にかけて,東寺,山門東塔北谷衆徒,武家被官などが入り乱れて領主職相論を展開,悪党の活躍も見られた。その過程で,東寺は領主的諸職を吸収し,道我より在地支配権を得,相論を有利に導いた。1345年(興国6・康永4)には東寺の領有を認める光厳上皇の院宣が出て,上桂荘は東寺の所領となった。年貢米,麦代銭,草銭,人夫役などが徴収されたが,桂川の度重なる洪水による用水路破損,耕地荒廃があって,安定的な収取は望めなかった。用水路修補などの費用は,元来名主の負担であったが,名主は負担にたえきれず,東寺が肩代りせざるをえなかった。また,周辺の禅宗寺院関係者による加地子名主職集積が盛んで,しばしば東寺の支配を妨げた。15世紀中ごろ,東寺は,隣荘革嶋荘地頭革嶋貞安を代官職および捨名主職に任じ,富豪寺崎玄雅らを名主職に任じて,彼らの力を借りて耕地復興,用水路修築などを行おうとしたが,用水管理,荘地経営の実権が彼らの手に移り,東寺の支配は一段と弱まった。また,用水路をめぐって,久世郷を始めとする西岡五箇荘とたびたび相論が起きている。
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百科事典マイペディア 「上桂荘」の意味・わかりやすい解説

上桂荘【かみかつらのしょう】

山城国葛野(かどの)郡の桂川右岸(南岸),現京都市西京区にあった荘園。上野(かみの)荘ともいう。開発領主は葛野郡一帯に古くから勢力を張っていた秦(はた)氏一族と推定される津守津公で,成立は10世紀中ごろと推定される。平安時代末期七条院領となり,のち後宇多上皇の寄進により東寺(教王護国寺)領となる。1229年の総田数16町余,うち定田は7町5段余で年貢米30石余,1245年には総田数22町2段余,うち定田5町5段余で年貢米23石余,定畑4町余。1334年には公田11町1段余,定田7町4段余。南北朝期を通じて年貢米は約60石。東寺領荘園としては小規模である。河岸に立地することから用水には恵まれたが,反面洪水の危険につねにさらされ,用水路・田畑被害がたびたびあった。また伝領関係をめぐる紛争や境界相論も絶えず,特に南北朝後半期以降は近隣に所在する禅院の蚕食が進んだ。1429年の桂川大洪水で田畑がほぼ荒廃地となったため,東寺は南隣革島(かわしま)荘の地頭革島貞安を上桂荘代官職および捨名主職に任命して再開発を請け負わせ,さらに復旧費負担を条件に富豪の寺崎玄雅と乗真房祐尊を上野荘名主職に補任して復興に乗り出すが,やがて用水管理権が東寺から土豪,名主側に移り,東寺の支配は次第に衰退していった。

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