下河原村(読み)しもがわらむら

日本歴史地名大系 「下河原村」の解説

下河原村
しもがわらむら

[現在地名]水沢市水沢工業団地みずさわこうぎようだんち佐倉河さくらがわ 下河原

北下葉場きたしたはば村の北、北上川右岸に位置し、胆沢いさわ扇状地の水沢段丘上に立地。奥州街道・さかり街道が通る。「胆沢風土聞誌」によると、地名は寿永年間(一一八二―八五)藤原秀衡が京の下河原の地名をまねて名付けたという。また同書によれば、下河原村は中世安国あんこく庄と称し、建保五年(一二一七)安土呂井あとろい四牛しうし那須川なすがわを分村した母村であったと伝える。鍛冶屋敷かじやしきの堂内に文保元年(一三一七)一〇月七日銘の石碑が祀られている。天文三年(一五三四)胆沢地方を支配していた柏山明吉は南部衆と争い、八月七日半入はんにゆう館の石川越後守に恩賞として下河原村の三千刈などを与えている(「柏山明吉宛行状」水沢石川文書)


下河原村
しもがわらむら

[現在地名]伊丹市下河原・小阪田おさかでん

猪名いな川の左岸に位置し、箕面みのお川が村内を貫流する。南はなか村、東および北東は豊島てしま今在家いまざいけ(現大阪府池田市)、北は同郡神田こうだ(現同上)。山陽道が通る。慶長四年(一五九九)一部が船越領となり、同氏(旗本)領として明治維新を迎えた(伊丹市史)。船越領は豊島郡持添高とされ、免定割・支配割とも勘定は当村から切離されていた(天保一四年「村明細帳」下河原福祉会文書)。残る幕府領分は寛永三年(一六二六)大坂城代阿部正次領となり、慶安元年(一六四八)幕府領、同二年から大坂定番安部信盛(武蔵岡部藩、慶応四年から三河半原藩)領となる。ほかに猪名川沿いに古宮ノ上流作場・墓ノ下流作場があり、ともに幕府領(伊丹市史)。北東部には今在家村が出作する船越氏の越石二八石余があった(前掲村明細帳、延享五年「下河原村東北部絵図」入江家蔵)

慶長国絵図に村名がみえ、高二一三石余。


下河原村
しもがわらむら

[現在地名]青山町下河原

伊勢地いせじ村の西に位置し、村の中央を阿保あお(木津川)が南流、岡田おかだ村と接するところを通称中山なかやまといい、そこで左へ蛇行する。津藩領。本高二一七・七八九石、平高二三二・三四石、うち一九三・五〇二石は給地にあてられている。寛延(一七四八―五一)頃の戸数三三、人口一四九、牛一二。神社は八幡・弁才がある(宗国史)。八幡は、のち村内に祀られていた津島社に明治三九年(一九〇六)合祀され、さらに津島社は同四一年、北山きたやま比々岐ひびき神社に合祀された。


下河原村
しもがわらむら

[現在地名]織田町下河原

織田村の南にあり、東は江波えなみ(現宮崎村)、西は平等たいら村。享禄元年(一五二八)一一月二八日付織田寺々庫収納田数帳(劔神社文書)に「織田大明神社納分、米方」として「壱斗 維那山之腰ニ在也、同維那田下河原ニ在也」と記されつるぎ大明神領に含まれていた。応仁―天文年間(一四六七―一五五五)と推定される越前国織田庄指出水帳(山岸家文書)にみえる「友弘名」は、現字友広ともひろの地と考えられる。


下河原村
しもかわはるむら

[現在地名]菊池市下河原

上妙見かみみようけん村の北にあり、東から河原川が南流する。東は姫井ひめい(現菊池郡旭志村)、西は藤田ふじた村に接する。隈府わいふ町高札辻より約一里。慶長国絵図に「下川原村」、寛永一三年(一六三六)の地撫帳に「川原村」とみえる。明和二年(一七六五)の下ケ名寄帳に「下河原村」と記される。河原手永に属し、「国誌」は「里俗河原村ト云」と記し、小村の車石・中原・中園・松島・千駄・高宮・柿木平・河久保・鶴頭などをあげる。このほか文化一一年(一八一四)頃の河原手永手鑑には小村として日向・神前・山の下・向神前がみえる。同手鑑によると、高九八三石四斗余、田一七町三反三畝余・畑一四四町五反八畝余、竈数二六二・人数一千九三、牛馬四一四、「氏神四宮社。


下河原村
しもがわらむら

[現在地名]毛呂山町下川原

市場いちば村の南、高麗こま川とくず川に挟まれた台地および低地に立地。下川原とも記す。小田原衆所領役帳に御馬廻衆の奈倉加賀の所領として「拾六貫八百八拾六文 入西郡下河原」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。田園簿では田高一四八石余・畑高八四石余、旗本藤掛領。元禄一六年(一七〇三)検地があり、一時幕府領となったが、再び藤掛領となり、幕末に至った(「風土記稿」・改革組合取調書など)。享保七年(一七二二)当村百姓らは秣場の中の峯(原野)二〇町余での新田開発を願出ている(「新田開発願書」毛呂山町史)


下河原村
しもがわらむら

[現在地名]米子市福万ふくまん

福万村の西、河岡かわおか村南東にある。福万村枝郷で、享和三年(一八〇三)新田村として届出され、明治三年(一八七〇)領内限りで下河原村と改めたという(藩史)。村名は佐陀さだ(半川)の氾濫による荒廃地が多かったことを物語る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二二〇石余、竈数一八。「伯耆志」の家数一八・人数八二、社倉が置かれていた。総産土神大神山おおがみやま神社。明治初年福万村に合併。同一二年の福万村のうち下河原分の家数三九、男九〇・女九〇、牛三〇・馬四〇(共武政表)


下河原村
しもがわらむら

[現在地名]直入町長湯ながゆ 下河原

新田にいだ村の北、せり川の支流河内こうち川の中流域に位置し、下川原とも記す。正保郷帳に村名がみえ、田高一一三石余・畑高四〇石余、朽網くたみ郷に属し、水損地であった。嘉永五年(一八五二)の長野組物成定(戸伏家文書)によれば高一九〇石余、村位は下、免六ツ六分。同年の軒数三二・人数一三四、牛七〇・馬四一(「軒別作高人別牛馬書上帳」同文書)


下河原村
しもかわらむら

[現在地名]新川町下河原・中河原なかかわら

土器野かわらけの新田村の南にある。寛文一一年(一六七一)には家数八、男三六人・女二三人(寛文覚書)。概高は三八石余でほとんどが畑であった(徇行記)。もと須賀口すかぐちと一円で、小字に中河原がある(尾張国地名考)。下河原村は庄内川に堤ができた後は、水害を受けることも少なくなった。


下河原村
したがわらむら

[現在地名]雄物川町下川原

雄物川東岸、沼館ぬまだて村を南北に縦断する街道から西方に分れる街道沿いにある。南は沼館村

享保一四年(一七二九)の平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「沼館之内下川原村」とあり、「諸帳不出」と注記される。同一五年の「六郡郡邑記」に家数三三軒とあり、延宝五年(一六七七)に沼館村から分村したといい、枝郷は八卦はつけ村六軒。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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