日本歴史地名大系 「下野薬師寺跡」の解説
下野薬師寺跡
しもつけやくしじあと
県道結城―
当寺に東国随一の寺院としての地位を与えたのは、天平宝字五年(七六一)とされる鑑真将来の登壇受戒の作法に基づく、戒壇設立と受戒の勤修であろう(「伊呂波字類抄」など)。以後「坂東十国得度者、咸萃之於此」として、東国沙弥・沙弥尼は奈良東大寺と筑紫
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県道結城―
当寺に東国随一の寺院としての地位を与えたのは、天平宝字五年(七六一)とされる鑑真将来の登壇受戒の作法に基づく、戒壇設立と受戒の勤修であろう(「伊呂波字類抄」など)。以後「坂東十国得度者、咸萃之於此」として、東国沙弥・沙弥尼は奈良東大寺と筑紫
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
栃木県下野市の旧南河内町薬師寺に7世紀後半に創建された寺院の跡。下野薬師寺は761年(天平宝字5)に戒壇が開基され,東大寺および筑前観世音寺の戒壇と合わせて,天下三戒壇と称されたこと,770年(宝亀1)に道鏡が造下野国薬師寺別当として配流され,772年この地で没したことで,とくに知られている。1965-71年に行われた発掘調査によって寺域西寄りで,南北中軸線上に南門,中門,金堂,講堂が並び,中門と講堂をつなぐ回廊のなかに,金堂とその背後西寄りに戒壇堂と称する建物跡のある状況が判明した。塔跡はこの伽藍から離れて,寺域内南東寄りに発見された。ただし,これら遺構の下層には,さらに掘立柱遺構の存在が一部で確認されていて,創建時の実態および8世紀の戒壇開基にともなう整備状況と発掘による検出遺構との関係については,なお検討すべきところがある。1921年国の史跡に指定された。
執筆者:田中 琢
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
栃木県下野(しもつけ)市薬師寺にある古代東国有数の官寺跡。奈良時代には日本三戒壇の一がここに置かれ、僧道鏡(どうきょう)の流配寺としても有名。『続日本紀(しょくにほんぎ)』などわが国の正史にも寺名が記されるが、創建年代は天智(てんじ)・天武(てんむ)・文武(もんむ)朝期など諸説があり不詳。しかし、1966年(昭和41)から71年まで6次の発掘が実施され、大和(やまと)川原寺(かわらでら)系の八葉複弁蓮華文(れんげもん)や重弧(じゅうこ)文の優美な軒瓦(のきがわら)が出土した。これによって天武朝期(673~686)ごろの創建説が有力となる。四至は塀によって画され、東西252メートル、南北340メートル強。東・西辺の中間には門が置かれ、やや西に寄った中軸線上に南門、中門、金堂、講堂が直線的に並び、中門と講堂は回廊で結ぶ。東塔は回廊の外に置かれる。回廊の正面幅105メートル(350尺)、講堂と中門の心心距離96.9メートル(323尺)など数値が示す規模は地方寺院としては大きく、正史の記載を裏づける。主要堂宇跡の現況は安国寺の境内となっている。
[大金宣亮]
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