日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国建築」の意味・わかりやすい解説
中国建築
ちゅうごくけんちく
中国文明はきわめて古い始源をもつだけでなく、3000年以上に及ぶ歴史時代を通じて、とだえることなく発展継承されてきた。その点において世界史の奇跡とされるが、中国建築の伝統もまたそうした特色を明確に反映し、世界の建築史上に独自の位置を占めている。
[田中 淡]
古代王朝の建築
漢民族によって開花した中国文明の年代が、文字記録により確認できるのは紀元前16世紀、殷(いん)王朝の成立であるが、古代王朝の建築については、従来、殷代甲骨文や周(しゅう)代金文の若干の名称のほか、時代の下る文献の「上古は穴居して野処(やしょ)す。後世聖人之(これ)に易(か)うるに宮室を以(も)ってす」(『易経』)のような伝説的記述や、「夏(か)后氏世室、殷人重屋、周人明堂」(『考工記』)といった不明瞭(ふめいりょう)な断片的記載しかなかった。ところが近年の考古学の成果により、伝説的な王朝とされていた夏王朝の年代に相当する城址(じょうし)が発見され、殷代の初期から中期の城壁や宮殿、西周時代の宗廟(そうびょう)、春秋戦国時代の宗廟、宮室、陵墓などの遺跡が次々と発掘された。漢代以降は豊富な文献史料と画像や明器(めいき)などによって具体的な様式・技術もある程度推定することができるので、これら新資料の出現と相まって、古代のきわめて早い時期から近代に至るまで、中国建築が悠久な歴史を不断に持続発展してきた情況が、ようやく明らかにされつつある段階である。
中国建築がきわめて早くから独創性に富む高度な技術的水準に到達していたことは、近年、浙江(せっこう/チョーチヤン)省河姆渡(かぼと)の遺跡から出土した大量の木造部材と遺構の残欠をみれば明瞭である。炭素14法による判定で6000~7000年前とされる柱、根太梁(ねだはり)、床板などの出土部材には精巧な柄(ほぞ)・柄穴が加工され、すでに仕口(しぐち)の結合を用いた木造高床(たかゆか)建築の技術が開発されていたことを物語る。河姆渡文化は稲作技術を伴う当時先進的な文明であり、華北・中原(ちゅうげん)の新石器時代の住居址は多く竪穴(たてあな)式の穴居であるから、建築技術的にはまったく異質の系統が存在したことになるが、揚子江(ようすこう/ヤンツーチヤン)下流域にこの種の先進文明が開花したという事実は、後の歴史時代の中国固有の建築的伝統の形成を考えるうえで大いに注目に値しよう。殷代の河南(かなん/ホーナン)省偃師(えんし)、湖北(こほく/フーペイ)省盤竜城(ばんりゅうじょう)の宮殿址は、四周に重厚な夯土(こうど)(つき固めた土)の壁を巡らし、この箱型の土壁を主要な構造体とする形式である。同趣の分厚い夯土の壁体を主たる構造とする例は、下って春秋時代、秦(しん)国雍城の陝西(せんせい/シャンシー)省鳳翔(ほうしょう)の宗廟址にまで継承されている。また春秋戦国時代には、「台榭(だいしゃ)」とよばれる夯土の基壇を段状ピラミッド式に築き、その各層四周に木造の建築を巡らした独特な重層建築の形式が盛行したことが知られる。台榭と同種の形式は、秦・漢時代の陝西省の宮殿・壇廟址にも受け継がれている例がある。すなわち、中原地方におけるより古い時代の建築は、土を主要な構造とする系統が主流であったとみられる。
[田中 淡]
木造建築の伝統
文献や画像、明器などから知られる限りでは、遅くとも戦国時代には、今日に連なる木造の構架を主体とする建築が確立し、それが漢代以降、厳然たる主流の地位を占めていたことは、ほとんど疑う余地がない。現在残っている古建築をとってみても、木造建築が圧倒的に主流を占めている。それを技術的にみると、柱、梁、椽(てん)(垂木(たるき))、(りん)(棟木(むなぎ))、斗栱(ときょう)(柱上の組物)などの部材を駆使し、相互を柄・柄穴で結合させながら、順次組み重ねて構架を形成するものであり、これは日本の宮殿・社寺建築に原型を与えたものにほかならない。この構造の特色は、正面の柱間(はしらま)数を間(けん)、奥行方向の梁組み構架の数を架(か)で数えて建物の規模を表す間架の表記法(五間九架、三間五架など)に如実に現れている。つまり、基準となる梁間方向の構架の単位を何度も繰り返すという前提があって初めて成立しうる方式で、整合性に優れる。この場合、木造構架の周囲には分厚い塼(せん)(れんが)や土の壁が積み重ねられて外表を覆うために、外見的には日本建築とは著しく異なる印象を与えるが、この周壁は、実は構造上の耐力を期待されているものではなく、主体はあくまで木造構架にある。中国に「墻(かべ)倒るとも屋塌(お)ちず」という諺(ことわざ)があるが、これはそうした家屋の構造原理をよく言い当てたものといえる。
このような形で木と土とを混用する中国固有の木造建築の伝統は、おそらく先秦時代に華北・中原地方ではぐくまれてきた土壁を主要な構造とする系統と、揚子江中・下流域および華南・西南地方に早い時期から発達した純木造高床建築の系統との融合によって、しだいに形成されていったものであろう。近年発掘された陝西省周原地区の西周時代の宗廟址に、柱位置を整然と配列した平面が検出されたのは、両者の系統を融合した、土・木混造の初期における萌芽(ほうが)とみられる。
悠遠な源流をもち、独自の伝統を生み出した中国建築の勇姿は、膨大な史書に伝えられているとはいえ、たとえば秦の始皇帝の阿房宮(あぼうきゅう)前殿、漢の武帝の未央宮(びおうきゅう)や建章宮、隋(ずい)の煬帝(ようだい)の洛陽(らくよう)乾元殿、唐代長安の大明宮(だいめいきゅう)など、歴史上に名だたる最高級の建築はいずれも失われ、今日に伝わるものはほとんどない。それは、たび重なる戦乱、王朝の交代、あるいは廃仏などを間断なく繰り返したこの国の激動の歴史が導いた、いわば当然の結果でもある。現存する木造遺構としては、南禅寺大殿(山西(さんせい/シャンシー)省五台、782)、仏光寺大殿(同上、857)など唐代のもの4、5棟があるほか、独楽寺観音閣(天津(てんしん/ティエンチン)市薊県(けいけん)、984)、隆興寺摩尼殿(河北(かほく/ホーペイ)省正定、1052)、晋祠(しんし)聖母殿(山西省太原(たいげん)、1102)などが比較的古い部類の代表的なものであり、ほとんどが仏教寺院および道観、孔子廟といった祠廟ではあるが、宋(そう)・元時代以前のものも各地に残り、秀作も少なくない。また歴史上の名建築に比肩しうる規模や伝統的形式を踏襲した宮殿・壇廟の類は、時代が下るとはいえ、明(みん)・清(しん)両王朝の宮殿であった北京(ペキン)の紫禁城(故宮)の内城の城郭・城門および太和殿・乾清宮などを含む全域が現存するし、同じく北京の天壇も古来の遺制をとどめており、山東(さんとう/シャントン)省曲阜(きょくふ)の孔子廟も明代再建時の全貌(ぜんぼう)を伝えている。
これらの木造建築は、たとえば軒反りの曲線、斗栱の形式、昂(こう)(尾垂木(おだるき))の用法、柱の上細り曲線、木鼻の繰形(くりかた)紋様、あるいは彩色紋様の類型など、細部的な手法をみると、唐・宋・遼(りょう)・金・元・明・清の各時代に応じた、明らかな様式的特徴をもっており、さらに木造構架の形式でさえ、原則的には間架形式を守りながらも、時代・王朝、あるいは地方によって若干の変化がある。たとえば、軒反りは宋代以前はそれほどきつくないが、明・清時代、とくに江南地方では急激な反転曲線が好まれた。斗栱は、漢代以前は単純な双斗形式が基本であったが、しだいに三斗、二重の栱(肘木(ひじき))、昂を併用したものも現れ、唐代には柱と柱の中間にも一組以上の補強用の斗栱を置くようになり、宋・元時代にはそれが定型化し、明・清時代にはいっそう単純類型化された。木造構架は、整然とした格子(グリッド)平面の交点に柱を立てる原則を守ったが、金・元時代には空間を広く活用するために柱の本数を大幅に減じた変則的な構架も用いられた。このようなさまざまの構成要素の変化は、各時代の建築様式を明確に弁別する指標となるものにほかならない。
[田中 淡]
塼・石造の建造物
一方、塼(れんが)・墼(げき)(日干しれんが)・夯(こう)土・石などを構造材とする建築も存続し、発達した。その代表的な類型は陵墓である。戦国時代には大型の木槨(もっかく)土坑墓であったが、漢代には、塼をアーチ式に積み上げ、ドーム状にもち送って墓室頂部を築き、墓道頂部をボールト(半円筒形)式につくるものが圧倒的に多くなる。塼造アーチや石板の組積造は、漢代以降、華北・華中の墓室構造の典型となり、遺構も各地に広範に分布する。アーチ、ドームの構造は西アジアやローマの系統とは方式を異にするもので、その後も中国において独自の発展を遂げ、隋代の安済橋(あんさいきょう)(河北省趙(ちょう)県、605~617)のような、当時の世界における先進的なアーチ橋の技術をも開発した。地上の塼・石造建築としては、墓前に建てられた門闕(もんけつ)があり、河南・四川(しせん/スーチョワン)省などに漢代の遺構が残る。仏塔では、木塔は仏宮寺(ぶっきゅうじ)釈迦(しゃか)塔(山西省応県、遼、1056)などわずかしかなく、ほとんど塼塔・石塔である。塼塔では最古の遺構の嵩岳寺(すうがくじ)塔(河南省登封、北魏(ほくぎ)、523)や、ラマ塔の妙応寺白塔(北京、元、1271)、石塔では神通寺四門塔(山東省柳埠、東魏、544)や棲霞寺(せいかじ)舎利塔(南京(ナンキン)、五代、959)などのほか、各地に秀作が少なくない。このほか、イスラム教寺院のドームやミナレット、また明代に流行した塼造ボールトで外観は木造を模した無梁殿(むりょうでん)という形式もある。
[田中 淡]
中国建築の特色
中国建築は、高度な技術的水準に早くから到達しただけでなく、材料面では木造を主に塼・石・土も併用し、類型的には城郭・宮殿・壇廟・陵墓・仏寺・石窟(せっくつ)・道観・ラマ廟・イスラム教寺院・官署・民間祠廟・住宅、さらに、ときにはキリスト教・ゾロアスター教・マニ教などをも受け入れ、多くの異民族文化と接触し、多彩な展開をみせた。にもかかわらず、その歴史を大局的にみると、時代・王朝や類型種別にかかわらない、一定の原則性に支配されている点も一つの大きな特色となっている。たとえば、都城の建設の際は、春秋戦国時代から明・清時代に至るまで、一般に二重城郭制を基本理念として計画され、「城」が内城で君主の、「郭」が外城で人民の、それぞれ居住区であって、堅牢(けんろう)な守りを前提とした。個別の建築の場合も、一棟ごとの建物としてより、建築群全体を同様に周壁で取り囲み、閉鎖的な一郭を形成することを主眼とした。中国のもっとも普遍的な住居の伝統的形式「四合院(しごういん)」がその典型で、東西南北に配した家屋で中庭を取り囲み、それを南北方向に幾重にも繰り返して、奥行の深い重層的な中庭群を形成する。この種の左右対称で奥行の深い閉鎖的な中庭群の構成は、唐・宋時代の仏寺や明・清時代の紫禁城や孔子廟にも共通するもので、すでに遠く西周時代の宗廟址にさかのぼる伝統をもつ。
こうした不変的な原則が確立しえた背景には、中国独特の官僚制の歴史がかかわっている。中国建築史の主流を歩み続けたのは、宮殿・城郭・壇廟・陵墓など官営の工程であり、それは官僚主導型のいわば統制的な建築観によって支えられたからである。北宋時代に徽宗(きそう)の勅命によって将作監の李誡(りかい)が編纂(へんさん)した『営造法式』は、世界でも希有(けう)の詳細な内容をもつ大部の建築技術書であるが、その主たる目的はそうした官営工事の経済的な統制であった。同書では建築を8等級に類別し、逐一の部材寸法や装飾・彩色紋様に至るまで、各等級に応じた詳細な設計基準が定められ、積算規準が示されているが、この種の建築に対する等級観も実は儒教の古い伝統に基づくものにほかならない。もとより建築は社会制度と深くかかわるものとはいえ、中国建築の歴史は、とりわけこの国の複雑で奥行の深い歴史の側面を随所に投影しているといえよう。
[田中 淡]
『田中淡訳・編『中国建築の歴史』(1981・平凡社)』▽『鄧健吾・田中淡監修、末房由美子訳『中国の建築』(1982・小学館)』▽『村田治郎・田中淡編『新装版 世界の文化史蹟17 中国の古建築』(1980・講談社)』