翻訳|bridge
川,谷,湖沼,海峡あるいは他の交通路の上を横切って下の空間を閉じることなくつくられた,道路,鉄道,水路などの交通路あるいは輸送路を支持する構造物の総称。土木工学上の専門用語では橋梁(きようりよう)ともいう。交通路の下に空間を有し,橋と同じ目的をもつが,ひとまたぎする長さ(支間あるいはスパンという)がとくに小さく,土被り(どかぶり)(上部の土)などの荷重も支えるように設計された構造物はカルバートculvert(溝渠)と称する。どの程度以上の長さのものを橋というかは必ずしも明確でないが,日本の道路技術基準では2m以上の支間としている。
有史以前から人類は小川や谷を渡る手段として,倒木,浸食された岩石,あるいは木にからみついたつるを利用した自然発生的な橋を使っていたに違いない。そしてこれらが,おのおの桁橋,アーチ橋,つり橋の起源と考えられ,知恵が進むにつれて,経験とくふうに基づく原始的な人工の橋も生まれてきたと想像される。
前4~3千年紀ころ文明の栄えたメソポタミアには,人工の木桁橋や石のアーチ橋がつくられたといい,エジプトでも石造アーチ,そしてインド,中国の奥地ではつり橋の存在が伝えられている。ローマ人も,前620年ころテベレ川に組立式の木橋を架けており,これがローマ最初の橋といわれるが,彼らの名を高めたのは石造アーチの水路橋(水道橋)である。上水道の水路としてつくられたものであり,なかでも南フランスのガール橋(ポン・デュガールPont du Gard,前13),スペイン,セゴビアの橋(14ころ)などは今も完全な姿を保ち,アーチの特性をよく心得たその技術は敬服に値する。
ローマ帝国滅亡後,再び注目すべき橋がつくられるようになったのは12世紀に入ってからである。このころキリスト教の修道僧に指導された架橋奉仕団がヨーロッパ各地に石のアーチ橋を架けたが,その中で南フランス,アビニョンのサン・ベネゼ橋Pont Saint-Bénezet(1185,通称アビニョンの橋)は今もその一部が残り,橋脚上の礼拝堂はその後の中世の橋の動向を示唆している。ローマ時代の石造アーチが半円形であったのに対し,このころには扁平な円弧アーチやサラセン文明の流れをくむ尖頭アーチも見られるようになった。その後中世末期には,礼拝堂のみならず住宅,商店などが立ち並ぶ生活の場としての橋が時代の風潮となった。古ロンドン橋でもそうであったが,イタリアのベッキオ橋(ポンテ・ベッキオPonte Vecchio,1345,フィレンツェ)やリアルト橋Ponte di Rialto(ベネチア)は今も訪れる人が多い(後者は1588年の再建)。しかし,ルネサンス時代が深まると,多少の装飾は見られるものの,石造アーチは簡潔な姿に戻る。1604年完成のパリ,セーヌ川のヌフ橋(ポン・ヌフPont Neuf)はその代表的な例である。棒状部材を組み立てたトラスは,このころイタリアのA.パラディオにより考案されたが,実際に初のトラス橋をつくったのは1757年,スイスの大工グルベンマン兄弟Hans Ulrick & Johannes Grubenmannで,彼らはその後もライン川に支間100mを超す木造トラス橋を架けている。
産業革命を契機として,橋の材料も人工の鉄が大量に使えるようになり,1779年イングランド,セバーン川の上流に世界初の鉄の橋コールブルックデール橋が建設された。支間30.5mのアーチ橋である。19世紀に入り,構造材料として鋳鉄よりすぐれた錬鉄がつくられるようになり,橋の規模も飛躍的に大きくなった。1826年に完成したイギリス,メナイ海峡のつり橋(メナイ橋Menai Bridge)は錬鉄製のチェーンケーブルを用い,176mという当時として驚異的な支間を達成した。この橋もその後,風による被害などに悩まされたが,当時ヨーロッパのつり橋は,材料や設計の欠陥から落橋に至ったものも少なくない。メナイ橋に少し遅れて,蒸気機関車の発明者G.スティーブンソンは世界初の鉄道橋をつくり,その子ロバートは50年,やはりメナイ海峡に今日の箱桁の元祖といえる支間140mの巨大なブリタニア橋を建設した。一方,新興国アメリカでも19世紀に入って橋梁技術は長足の進歩をとげ,1801年フィンリーJames Finley(1762-1828)によって近代つり橋の形態を備えた初のつり橋が架設され,また20年ころからは各種トラスの考案が競ってなされ,実現に移された。そして74年,J.B.イーズは鋼を本格的に用いたアーチ橋をセント・ルイスのミシシッピ川に架けたが,この橋の工事には圧縮空気ケーソンの基礎,橋桁のカンチレバー架設など,数々の斬新な工法が駆使された。現代の構造材料として鋼と双璧をなすコンクリートの橋が初めてつくられたのは1869年,鉄筋コンクリートが橋に適用されたのは75年である。いずれもフランスでのことで,以後もコンクリート橋では伝統的にフランス系の技術者の活躍がめざましい。
近代化の道を歩み始めたとはいえ,当時はまだ技術水準の低さから悲惨な事故もいくつか発生した。76年にはアメリカ,オハイオ州で,3年後にはスコットランドで,いずれも悪天候の中,鉄道トラス橋が崩壊して列車が転落し,それぞれ70~80人の人命が失われた。後者のテイ橋Tay Bridgeの教訓は,その直後設計風圧を考慮し設計し直された同じスコットランドのフォース橋(1890)に生かされた。521mの二つの径間をもつこのカンチレバー・トラス橋は,パリのエッフェル塔と並んで,19世紀のヨーロッパを代表する巨大構造物として今も威容を誇っている。一方,アメリカでは,83年レーブリング父子の精魂を込めたニューヨークのブルックリン橋Brooklyn Bridge(つり橋,支間487m)が誕生したが,このフォース,ブルックリン両橋はその後20世紀にかけての長大支間化への幕あけとなった橋である。とくにアメリカのつり橋はまさに黄金時代を迎え,次々と記録を更新して,1931年にはついに1kmを超す支間のジョージ・ワシントン橋George Washington Bridgeが,37年には以後四半世紀にわたり世界一の座を保ったゴールデン・ゲート橋(支間1280m)が完成した。またつり橋以外の橋のなかで長い間世界最長支間を誇ったケベック橋Quebec Bridge(カンチレバー・トラス形式,548m)が1917年カナダに,鋼アーチでは31年にベイオウン橋Bayonne Bridge(アメリカ,504m)が,翌年にはシドニー・ハーバー橋Sydney Harbour Bridge(オーストラリア,503m)が建設された。しかしこのころでも橋にまつわる事故は繰り返されている。上述のケベック橋は架設中二度の大事故で少なからぬ人命を失い,40年には当時世界第3位のつり橋,タコマ・ナローズ橋(アメリカ)が完成後4ヵ月にして風による激しい振動の末海中に崩落した。残念ながら技術は,その進歩が時として新たな形の事故をもたらし,そしてその結果新たな発展を生むという側面をもっており,この事故以後つり橋の耐風設計は格段の飛躍をとげた。
鋼橋に後れをとったコンクリートの分野でも,20世紀前半のヨーロッパに2人の天才技術者が現れた。すなわちフランスのフレイシネEugène Freyssinetはプレストレストコンクリートの特許を得て,1938年それを用いた初めての橋を実現させ,スイスのマイヤールRobert Maillartは力学的な合理性を生かした,独創的なデザインの鉄筋コンクリート橋を数多く設計した。
戦火で中断された橋梁技術は,第2次世界大戦後とくにヨーロッパでめざましい復活をとげた。材料,工法,電子計算機を駆使しての設計手法における進歩がその契機となった。西ドイツにおいては鋼床板付き箱桁や斜張橋の採用により,それまで見られなかった軽量かつスマートな鋼橋が続々誕生した。長大つり橋ももはやアメリカの独占ではなくなり,支間1000m前後のテジョー川橋(リスボン),フォース道路橋,セバーン橋(ともにイギリス),ボスポラス海峡橋の諸つり橋のほか,1981年完成のハンバー橋(イギリス,支間1410m)はニューヨークのベラザノ・ナローズ橋(支間1298m)をしのいで世界一の座を奪った。さらにプレストレス工法の普及はコンクリート橋の適用範囲を著しく拡大し,数ではもちろんのこと,支間長でも鋼橋の領域に大きく食い込んできた(2008年現在,世界最大のつり橋は支間1991mの明石海峡大橋で,1998年完成)。
執筆者:伊藤 学
橋梁建設の歴史は古く,構造類型も飛石,浮橋,アーチ橋,桁橋,つり橋,肘木橋,廊橋など多種のものがある。先史時代の状況は明らかでないが,《詩経》に描写される舟を並べた浮橋,《爾雅》に倚の名で見える歩橋(飛石),漢代には杠(こう)と呼ばれた丸木橋などがもっとも古く簡素な形式に属する。空中を跨架(こか)する橋梁の始源はつまびらかでないが,文献的には遅くとも戦国時代には桁橋がつくられたと推定され,斉の臨淄(りんし)の城壕の両岸から橋頭の基礎が発掘されている。秦の始皇帝が渭水(いすい)の両岸に築いた長楽・咸陽両宮の間に架けられた橋は支間68,柱750本からなる木造の桁橋であり,漢代の壁画に中段を高く上げた橋の描写がある。秦・漢時代には,閣道という宮殿を連絡する重層の廊や桟道(さんどう)という山の斜面に架ける木造歩道も出現し,画像にはアーチ橋や肘木橋のような梯橋も見え,橋梁技術がすでに一定の進歩をとげたと推定される。桁橋は以後も広範に用いられ,遺構も数多い。
西安の灞橋(はきよう)は漢代の創建と伝え,清末の再建ながら,円石を積み重ねた橋脚と片持ち木梁を用いた石軸橋と呼ばれる独特な構造で,同所の灃橋,滻橋とともに知られる。福建泉州の洛陽橋は橋脚,梁(桁)ともに石造の桁橋で,北宋の1053-59年(皇祐5-嘉祐4)の建設になり,上部は改造されたが現存する。一方,アーチ橋は,構造としては漢代の墓に常用されているが,文献に現れた明確な例としては,洛陽の旅人橋が晋の時代,282年(太康3)建設の石造の大アーチ橋であった。隋の李春が設計した河北省趙県の安済橋は現存する最古のアーチ橋で,扁平な弓形アーチと両肩に小アーチ各二つをうがったオープン・スパンドレルアーチの形式を採用し,構造的にきわめて成熟した段階を伝える中国古橋の代表例として内外に名高い。同じ形式は,のちの趙県の永通橋,山西県の普済橋,晋城の景徳橋などにも用いられている。また北宋の《清明上河図》に描かれたアーチ橋は,木造持送りリブを幾重にも用いた巧みな構造をもち,当時の橋梁技術の高度な水準を示す。弓形のほかに半円アーチも数多くつくられたが,とくに蘇州の宝帯橋,北京の蘆溝橋,頤和園(いわえん)の十七孔橋などは連続アーチ橋の代表的遺構で,江南地方の水郷都市や景区でも半円アーチ橋が常用されている。
つり橋は索橋ともいい,始源は古いと思われるが明らかでない。四川灌県の珠浦橋は,李冰(りひよう)が築いた都江堰の地に架かり,創建当初の形式は不詳だが,竹索を両岸の牽引装置で支えたつり橋の代表的遺構である。鉄の鎖でつるしたつり橋は明代修建という雲南の元江橋や,清の1706年(康熙45)建設の四川瀘定橋などの例が知られ,またチベットなどにはトウ(籐)のつり橋もある。肘木橋は,両岸から何本もの片持ち木梁を跳ね出す独特な構造で,甘粛蘭州の握橋や四川,チベットなどに実例がある。廊橋は,橋の本体を屋根付き廊とし,橋脚ごとに亭屋を築く中国橋に独特の形式で,湖南新寧の江口橋や広西三江のトン(侗)族の程陽橋などが代表的遺構である。
執筆者:田中 淡
橋が文献に現れる古い例としては,《日本書紀》仁徳天皇13年の条に,〈猪甘津(いかいのつ)に橋為(わた)す〉とある。飛鳥・奈良時代には道昭(道登)による宇治橋(646),行基によると伝えられる山城の山崎橋(726)など,僧侶の指導によって橋がつくられた。山間部にはつるを使ったつり橋もあったが,日本の古い橋はほとんどが木の桁橋であった。いずれにせよ寿命は短く,とくに平地河川の木橋は洪水や戦火により存亡つねならぬ状況であった。その中で世界に誇れるものとして,三奇橋と称される猿橋,錦帯橋,愛本橋(かわりに木曾の桟(かけはし)をあげる場合もある)がある。甲斐の猿橋は7世紀に百済(くだら)の帰化人によってつくられたというが定かではない。しかし少なくとも13世紀半ばには存在しており,刎木橋(肘木橋ともいう)と呼ばれる張出し桁構造である。今はない愛本橋(1656)も同じ原理の橋であった。1673年(延宝1)建設の錦帯橋は当時世界でも珍しい木のアーチ橋で,創意あふれる石積み橋脚と相まって,技術的にも景観的にもすばらしい。
大陸文化の影響を直接うけた九州や琉球では石造アーチ橋がつくられた。もっとも古い記録は,当時独立国であった琉球に1451年建設された長虹堤に含まれる大小七つのアーチ橋である。九州では明の帰化僧如定による長崎の眼鏡橋(1634)を最初として多数の石造アーチ橋がつくられ,なかでも諫早の眼鏡橋,鹿児島の甲突(こうつき)五橋,熊本の通潤橋が名高いが,熊本以南のものは肥後の石工たちが独自のくふうで発展させた秘伝によるという。
日本近代橋梁の歩みは明治の文明開化とともに始まった。最初の鉄の橋は,1868年(明治1)の長崎のくろがね橋で,その翌年には横浜にも吉田橋が架設された。初期の鉄道橋は木造トラスであったが,これもまもなく鉄製に移行する。しかし明治前半の鉄の橋は材料はもとより,関西地方では橋桁そのものもヨーロッパから輸入し,設計や技術指導は欧米からの御雇外国人が行った。初の国産鉄橋は78年東京の楓川に架けられた弾正橋(1929年撤去され,八幡橋に転用)である。鋼材を用いた初めての橋は88年完成の東海道線天竜川橋梁で,錬鉄混用のトラス橋であった。一方,鉄筋コンクリート橋は1903年の若狭橋や琵琶湖疎水橋に至ってようやく実現を見た。日本独自の技術が開花する契機となったのは関東大震災で,その復興事業として隅田川に架けられた永代,清洲をはじめとする諸橋はそれぞれ特色をもった名橋である。
第2次大戦後には世界の先進国と肩を並べ,あるいは彼ら以上に新技術を意欲的にとり入れて,日本の橋はめざましい進歩をとげてきた。55年完成の西海橋(鋼アーチ),66年につくられた天草五橋,73年建設の関門橋(つり橋)は,その各時点での日本の橋梁技術の画期的な成果であり,完成時点でプレストレストコンクリート桁橋として世界最長支間を誇った浦戸大橋(1972,支間230m),彦島大橋(1975,236m),浜名大橋(1976,240m)の諸橋,トラス橋として世界第3位の大阪の港大橋(1974)は世界の最高水準に達したもの,そして本州四国連絡橋に至って,世界の橋梁史上類例を見ない大プロジェクトを実現させたのである。
橋の構造は,いわゆる橋桁と総称される上部構造と,これを支えて地盤に力を伝える下部構造とに大別される(図1-a)。下部構造のうち地上にある軀体(くたい)は,さらに橋台と橋脚に分けられる。橋台は橋の両端にあって岸に接しているコンクリート構造物で,橋桁からの力のほか,岸からの土圧を受ける働きをする。橋脚は橋台の中間にあって橋桁を支える構造物で,やはりコンクリート造が多いが,背の高い場合とか都市内の高架橋では鋼製橋脚が用いられることがある。橋台,橋脚はさらに地中にある基礎に支持されている。基礎は一般に堅固な支持地盤に達するまで埋め込まれ,浅い場合には鉄筋コンクリート版の直接基礎,深い場合には杭基礎か,鉄筋コンクリートまたは鋼製の箱の中にコンクリートを充てんしたケーソン基礎が用いられる。土層が非常に厚いときは杭と土の摩擦で杭の支持力を確保しなければならないことがある。
上部構造のうち,橋台や橋脚に直接支えられる主桁(主構ともいう)は,橋の中でもっとも目だつ部分である。交通物がのる橋床は直接に,あるいは縦桁や横桁(床桁ともいう)を介して主桁に支えられる(図1-b)。道路橋の橋床は鉄筋コンクリートスラブがもっとも多いが,長い支間の鋼橋では軽量の鋼床板が用いられることがある。鋼床板は鋼板を縦横の補剛材で補強して大きな荷重に耐えられるようにしたもので,鋼板の上にはアスファルト舗装をする。橋床を主桁の一部に兼用させることも多く,鋼桁と鉄筋コンクリート床版を一体にしたものを合成桁と呼ぶ。鉄道橋では,以前は軌道まくら木を主桁や縦桁で直接支える開床式がほとんどであったが,騒音の問題や軌道構造の変化に伴い,近年は鉄筋コンクリートスラブを用いた閉床式が増えている。
わずかな例外を除き,橋は並列する複数の主桁を有し,これらは一般に横構および対傾構と呼ばれる骨組みでつながれる。横構は水平方向に作用する風荷重や地震荷重に抵抗し,対傾構は橋の断面変形を防ぐ役目をもつ。また,主桁は温度変化によって伸び縮みするが,橋台上および主桁が連続していない橋脚上では,車輪が不連続部で落ちないよう伸縮継目を置く。
橋台あるいは橋脚の間を径間,主桁の支点間の距離を橋の支間(スパンspan)といい,橋長は上部構造の全長である。橋桁の下の空間は桁下空間といい,航路や他の交通路をまたぐ橋では所要の幅と高さの空間を確保してやらなければならない。橋の技術的難易度は主として基礎を含めた下部構造の大きさと上部構造の支間に左右される。
橋はその用途により道路橋,歩道橋(人道橋ともいう),鉄道橋,水路橋,併用橋などの種類があり,主桁の材料からは木橋,石橋,鋼橋,コンクリート橋,合成橋などに分けられる。橋床と主桁の相対位置で分ければ,橋床が主桁の上部に設けられる上路橋,中間に設けられる中路橋,下部に設けられる下路橋,2層の橋床をもつ二階橋があり,橋桁が動くかどうかにより固定橋(これがふつうである),可動橋,可搬橋などの区分がある。主桁の構造様式からはスラブ橋,桁橋,トラス橋,斜張橋,アーチ橋,つり橋など,そして主桁の支持条件により単純支持橋,連続橋,カンチレバー橋に分類される。このように橋はさまざまな観点から分類され,そのおのおのについて形状,力学特性によりさらに細分類されるが,上述した中では主桁の構造様式と支持条件を組み合わせた力学的な分類が橋の形式を特色づけるものとしてもっとも重要であり,以下ではこれについてやや詳しく解説することにする。
橋の形式としてもっとも単純なのは,コンクリート床版(スラブ)をそのまま主桁とするスラブ橋(版橋ともいう)である。自重および車などの重量によりスラブは曲げを受けてたわみ,中心より上側に圧縮力,下側に引張力が作用する。コンクリートは引張りにはきわめて弱いので,スラブ内の下側に鉄筋を埋め込んだ鉄筋コンクリート構造,あるいは鉄筋の代りに高強度の鋼棒または鋼線を配し,これにあらかじめ引張力(プレストレス)を加え,自重などによるものと逆向きの曲げを与えておくプレストレストコンクリート構造とする。スラブ橋は形がすっきりしており,橋桁の厚みが小さいという利点はあるが,支間が25m程度以上になると,たとえプレストレス工法を用い,内部に穴をあけておくというようなくふうをしても自重が大きく不経済となる。
橋にもっとも多く見られるのは桁橋で,木材,鉄筋コンクリート,プレストレストコンクリートあるいは鋼材よりなる梁(桁)を主桁とする。桁も上からの荷重によって曲げを受けるが,I形断面はもっとも少ない材料でこれに有効に抵抗しうる。鋼板で組み立てた桁はとくにプレートガーダーplate girderと呼ばれる。並列したI形断面の桁の上下の水平な板(フランジ)をつなぎ閉断面とした箱桁はねじりに強く,上フランジを橋床に兼用できるという利点がある。この際,鋼桁であれば,前述の鋼床板を橋床に使う。プレストレストコンクリート桁橋にも箱桁が用いられることが多い。鉄筋コンクリート床版と鋼桁とをずれ止めで緊結して一体とした桁を合成桁といい,圧縮に強いコンクリートが上側に,引張りに強い鋼が下側に位置するので,二つの支点間に架け渡された単純支持桁(単純桁ともいう。図2-a)の場合には有利である。
桁橋の支間が長くなると大きな断面が必要となり,したがって自重が増す。そこでこの桁の,力を伝えるのに必要な骨の部分だけ残したと考えられるのがトラスで,細長い棒状の部材を組み立てた三角形を基本とする骨組みである。3辺の長さが定まれば三角形はその形を変えないことから,トラスを構成する部材の結合点は回転自由なピンとみなし,この場合各部材には引張力か圧縮力だけが作用するとして設計する。トラスを支点間に架け渡した橋をトラス橋といい,美観には劣るが,長い支間には経済的である。なお,橋に使われるトラスの骨組みにはさまざまな形式があり,それぞれ力学的特性が異なる。
→トラス
桁またはトラスが不連続点なしに三つ以上の支点で支えられたものを連続橋という(図2-c)。2支点で支えられた単純支持橋を並べるよりも作用する曲げが小さくなり,経済的な設計ができるうえに,不連続部に設置される伸縮継目の数が減るので車両走行性もよいが,地盤が弱く支点が不等沈下するようなことがあると無理な力が働く。この連続橋を適当な位置で切断し,そこにヒンジ(回転自由な連結部)を挿入してやると,作用する曲げは連続橋に近い状態で,しかも支点沈下による無理な力はかからないですむ。このような形式の橋を考案者(ドイツのH.Gerber)の名をとってゲルバー橋,または張出し桁(片持ち梁cantilever)を含むゆえにカンチレバー橋と呼ぶ(図2-d)。地盤の弱い場所の多い日本では,以前からこのカンチレバー橋が広く用いられていたが,基礎工法の進歩に伴い,ヒンジという構造上・車両走行上の弱点をもたない連続橋のほうが増えてきている。単純支持橋の場合は合成桁を用いても支間長は100m程度までであるが,連続橋,カンチレバー橋では,桁橋,トラス橋ともにかなり広い範囲の支間に使える。前述のケベック橋(中央支間548m),港大橋(中央支間510m)は,いずれもカンチレバー・トラス橋である。
塔から斜めに張ったケーブルで主桁をつった橋で,ケーブルに沿って橋桁をつるすつり橋(後述)とは力学的原理が異なり,ケーブルで弾性支持された連続橋に近い性格をもつ。斜張橋の特徴は形態の多様さにあり,ケーブルの本数・配列,塔の位置・形状など種々の組合せがある。したがってその適用範囲はきわめて広く,美観をかわれて短支間の歩道橋などにもよく使われる一方,400mを超える長支間にも用いられ,今後の発展性は大きい。長支間では膜状に多くのケーブルを配したものが多い。フランスのサン・ナゼール橋(404m),インドの第二フーリー橋(457m),名港西大橋(405m),本州四国連絡の岩黒島・櫃石島両橋(いずれも420m),横浜航路横断橋(460m),東神戸橋(485m)などが著名。プレストレストコンクリート斜張橋もスペインのバリオス・ド・ルナ橋(中央支間440m)をはじめ鋼橋に劣らぬ長大支間橋があるが,日本では歩道橋など短支間のものが多い。
上に弓形に反ったアーチを主桁とする橋をアーチ橋という(図2-f)。アーチの両端は水平に動かないよう支えなければならず,したがって自重や車両荷重の下で,アーチの両支点には内向きの水平反力が生じ,これによりアーチには圧縮力が作用する。アーチが棒状あるいは桁と同じような断面のものをソリッドリブアーチ,トラス状のものをブレーストリブアーチという。また,アーチとその上に支えられる橋床を含む面全体がトラスで組まれたものをスパンドレル・ブレーストアーチ,アーチから橋床をつるすつり材を綾状に組んだものを考案者の名をとってニールセン形式アーチと呼んでいる。
橋に使われるアーチにはヒンジの数により3ヒンジアーチ,2ヒンジアーチ,固定アーチの3種がある。3ヒンジアーチは二つの支点(アーチのときはとくにスプリンギングともいう)とアーチの頂点(クラウン)にヒンジをもち,支点が多少動いても無理な力がアーチに働かない利点はあるが,使われることは少なく,日本では大阪の桜宮橋があるのみである。鋼アーチでもっともよく用いられるのは両端の支点にヒンジをもつ2ヒンジアーチである。鉄筋コンクリートアーチやブレーストリブアーチにはヒンジをもたない固定アーチが多い。アーチの両端をさらにその両隣の径間のアーチと連続させてやると,側径間が重しとなって中央径間のアーチの負担が減り,かつ支点における水平反力も軽減される。これをバランストアーチといい,日本では神戸大橋がその代表例である。アーチの形状としては,古い時代の石造アーチは円弧状がほとんどであったが,現代では自重のような等分布荷重によってアーチリブに圧縮力のみを生ずる放物線形とすることが多い。ただしこの場合も,車両などの移動荷重の載荷位置によっては圧縮力のほかに曲げも加わる。
アーチの両端を真直ぐな部材(タイtie)でつないだものをタイドアーチという。水平反力はタイに生ずる引張力で受けもたれて支点には伝わらない。したがって橋全体は単純支持すればよく,地盤の悪い場所にもアーチ橋をつくれる。東京の隅田川の永代橋はカンチレバー型タイドアーチ,同じく東京の松住町のJR総武線架道橋はブレーストリブのタイドアーチ橋である。アーチ橋に作用する曲げをタイドアーチのタイで受けもたせ,アーチ部材には圧縮力しか負担させない形式は,考案者の名を冠してランガー橋と呼ばれ,タイドアーチと逆に,アーチは細く,タイは太い桁,場合によってはトラスとなる。天草パールラインの大矢野橋はランガートラスの例である。タイドアーチとランガー橋の中間の性格をもち,アーチと水平な桁で曲げを均等に分担するタイドアーチ系の橋を,これも考案者の名をとってローゼ橋という。ランガー橋やローゼ橋はアーチを桁で補剛したものなので,補剛アーチ橋とも呼ばれる。補剛アーチ橋の原理は橋床をアーチで下から支える上路形式にも適用されるが,この場合はタイドアーチではなくなり,アーチの水平反力は橋台で抵抗させなければならない。
アーチに主として働く軸方向の力は曲げによる力と異なり,断面に均一に分布し,断面のむだが少ないので,桁橋より長い支間に使える。瀬戸内海の大三島橋は2ヒンジ・ソリッドリブアーチで約300mの支間をもち,世界最長の鋼アーチはブレーストリブ形式のニューリバー・ゴージ橋(アメリカ)で,支間長518mである。圧縮に強いコンクリートもアーチに適しており,世界最長のサン・マルコ第1橋は390mの支間長を有する。
主桁と橋脚とを剛に連結して一体とした構造の橋をラーメン橋という(ラーメンRahmenは剛節骨組みのドイツ語)。門形のものがもっとも多いが,あまり大きな支間には使えない。高速道路をまたぐ橋などには脚を開いた方杖ラーメンがしばしば見られるが,これを曲線化していけばアーチに通じる。また,長支間のコンクリート桁橋では橋脚と桁を一体にすることがあり,これもラーメン構造の適用例である。浜名湖の入口にかかる浜名大橋もその一つで,プレストレストコンクリート橋としては日本最長,世界第3位の240mの支間を有し,中央径間の真ん中はヒンジとなっている。なお,はしごを横にした形の桁を考案者の名を冠してフィレンデール桁というが,トラスと異なり四角形の骨組みを連ねたもので,部材の接合点を剛結したラーメン構造としてやらないと形を保てない。東京の日本橋の豊海橋は数少ない日本のフィレンデール橋の第1号である。
空間に張り渡したケーブルに沿って橋床をつった橋をつり橋という。アーチを逆さまにしたのがつり橋のケーブルで,したがってこれには引張力が作用する。つり橋のケーブルは以前には多くの鋼板をピンで連結したチェーンケーブルが使われたこともあったが,現在はすべて硬鋼線を束ねたワイヤケーブルである。いずれにせよ,ケーブルは引張力しか受けもてない。鋼材は引張材として用いるのがもっとも効率よく,しかも硬鋼線材はふつうの構造用鋼材の4倍もの引張強さをもつので,つり橋は長大支間を渡るのに適しており,現在,支間長550mを超える世界の長大支間橋約20はすべてつり橋である。しかし山奥の人道つり橋にみられるように,ケーブルから床をつるしただけではたわみやすく,揺れやすい。そこで,橋床に沿って桁かトラスで補剛する。つり橋の自重はすべてケーブルで負担してくれるので,この補剛桁は支間の割りには小さくてすみ,本州四国連絡橋では支間1000m級のつり橋が高速道路と複々線の鉄道に対して設計された。しかし補剛桁を備えていてもつり橋は他の構造形式に比べれば剛性が低く,風による不安定振動を生じないよう,補剛桁の形をはじめ十分な配慮を必要とする。
通常,つり橋はケーブルとこれを支える塔,ケーブルの引張力を受けとめるアンカーブロック,そして補剛桁と,これをケーブルからつるすつり材とから構成される。短いつり橋には単径間のものもあるが,大きなつり橋は側径間をもつことが多く,側径間が比較的長い場合にはこれもケーブルでつる。補剛桁を連続桁とし,ケーブルの両端を補剛桁に定着すればアンカーブロックは不要となる。これを自定式つり橋というが,長支間には適用できない。東京の清洲橋は自定式つり橋としても,チェーンケーブルのつり橋としても日本唯一の例である。
→つり橋 →ワイヤロープ
橋を架ける必要性が生ずると,まずその地点の地質,地形,環境などの調査を行い,その時点の技術,経済両面から橋を架けることが可能であるかを判断し,可能ならば,どのような案がありうるかを比較検討する。海峡や広い河川を渡る場合にはトンネルとの比較がなされることもある。もちろん,地形,地質などの条件から橋,トンネルいずれかの優劣が明確な場合が多いが,関門海峡やニューヨークにおけるようにトンネルと橋がともに建設される場合もある。一般にトンネルはかなりの土被りを必要とするので,道路や鉄道のこう配制限もあって,橋に比べるとかなり長くなり,工費がかさみ,また長大な道路トンネルの場合には排ガス処理の問題もある。一方,橋では,水深が大きく,あるいは地盤が悪いと,下部構造がつくれない,支間が長すぎて技術的に無理という場合がありうる。
橋は一般の交通路部分より工事費がかさむので,できるだけ橋長が短く,しかも下部構造の建設が容易な地点に計画すべきではあるが,治水上あるいは道路,鉄道等の線形などの制約も考慮しなければならない。橋の形式選定にあたっては,その橋の目的・機能,地形・地質条件,架設方法,供用後の維持管理,公害・景観等の環境問題,そして経済性など多くの条件を勘案する。たとえば高速道路の橋は車の安全,快適な高速走行をはかるため,多少無理をしても道路線形に合わせ,できるだけ上路形式とし,伸縮継目の少なくてすむ構造とする。なお,上路形式は利用者の視野を妨げないほか,曲線橋に適する,合成桁に適する,拡幅に便利であるなどの利点があるが,桁下高に制限のある平地河川の橋では下路形式にせざるを得ないことが多い。船の航行にさいして橋桁を開いてやる可動橋には昇開橋,旋回橋,跳開橋の3種があるが,橋の上の交通を一時停止することになるので最近はあまりつくられなくなった。鋼橋はコンクリート橋に比べ,耐候性鋼材を使える場合を除き,数年ごとの塗装を要するという維持面での不利はあるが,他方,この塗装により環境に調和した色を選ぶことができ,軽量なるゆえに耐震性に優れ,施工期間が短いなどの利点があり,日本では他国に比して鋼橋の比率が大きい。耐久性と強度に劣る木材,重くて接合のできない石材は最近では本格的な橋には使われない。
橋の支間長は下部構造を含めた総工費,必要な桁下空間,治水上の制約などを考慮して決定される。次に,支間の長さに応じて主桁の構造形式を選定するが,一般に数百mを超える長大支間ではつり橋が独占的な地位を占めるほかは,特定の支間に対しては何種類かの候補があり,このうちから経済性,維持管理の難易度,その地点特有の諸条件などを総合して最終案を決める。橋脚の構造・形状は架橋地点の地形,河川などの状況によって,また基礎の形式・工法は地盤の状況によって選定する。
多くの人の目にふれ,交通の要衝にあって目だつ構造物である橋は,古くから人々の関心を引き,したがって土木構造物の中ではその外観が問題とされることがもっとも多い。橋はそれ自身美しいとともに周囲の景観と調和しなければならず,どこから見られるかという視点との位置関係も重要である。橋自体の構造景観を規定する要因としては,各部のプロポーション,リズム,視覚的連続性,力学的明快さ,スケール,質感,色彩などがある。また,各部を形成する面の組合せによる陰影の効果,高欄・照明灯など付属物を含めた細部のくふうによっても視覚的印象を向上させることができる。実用的公共構造物である橋はことさら装飾を施したりすることはほとんどないが,近年,モンタージュ写真,透視図,模型など各種の景観予測手法を利用して,計画・設計段階で積極的に美観を考慮するようになった。
橋には安全性,耐久性,使用性,経済性,美観が要求されるが,これらは互いに背反する面があるところに設計のむずかしさがある。使用性にかかわる条件のうち,橋の機能・規格などについてはそれぞれ規定があり,たとえば道路橋であれば線形,こう配,有効幅員,建築限界などが与えられる。安全性の確保については,同種の構造物の間でその水準が異なってはまずいので,荷重,強度・剛性の許容値,部材配置,施工方法などを規定した設計規準(示方書ともいう)に従って,構成要素の配置およびそれらの材料,形状,寸法を決める。橋にはさまざまな外力が作用する。設計規準には耐用期間内に作用するこれら外力の最大と考えられる値を荷重として規定している。橋の設計耐用期間は国により,橋の種類により異なり,あるいは明記されていない場合もあるが,日本の一般道路橋では供用年数50年,イギリスの橋では設計寿命120年としている。おもな荷重としては,構造物自体および付属物の重さである死荷重,橋の上にのる車両・群衆の重さである活荷重,車両の走行に伴う衝撃,遠心荷重などのほか,自然界からの作用として風荷重,地震の影響,温度変化の影響,雪荷重など,また下部構造に対しては土圧,水圧,波圧,浮力,地盤移動の影響,船や車の衝突荷重などがある。これら外的作用は実際には一般に複雑であるが,設計荷重として規定するときには計算の便を考えて単純化,モデル化を行うことが多い。たとえば道路上にはさまざまな車種,重量の自動車列が混ざり合っているが,道路橋の活荷重としては,床版など短支間の部材の設計には法規上最大重量の車両モデル1台を,主桁の設計には1個の線荷重と等分布荷重の組合せを規定している。また,衝撃や地震の影響は一般に静的な効果に置き換えている。
ところで,日本の橋は地震,台風,軟弱地盤といった他の国にまして厳しい自然条件のもとで設計される。とくに長支間の橋,ケーブルを用いたつり橋,斜張橋は比較的剛性が低いため,地震や風の作用に対しては別に振動解析を行って,その安全性を照査する。いくら精緻(せいち)な解析計算を行っても,設計にはさまざまな不確定要因が含まれているので,構造物の安全性を確保するために安全率を設けている。すなわち,設計荷重によって構造物に生ずる力が,構造物の計算上の強度を安全率で割った許容値を超えないように設計する。橋では,死荷重,活荷重,衝撃などのように常時作用する荷重による破壊に対する安全率をほぼ3から4くらい,鋼材の場合は降伏に対する安全率を1.7くらいにとっている。作用頻度の少ない荷重や一時的な荷重については安全率を低減する。
鋼橋は工場で運搬可能な大きさの部材を溶接により製作し,現場で高力ボルト接合により組み立て架設するのがふつうである。以前使われていたリベット接合は今はほとんど姿を消した。一方,コンクリート構造は現場へ材料を運んで完成までの工程を進めることが多いが,プレストレストコンクリート橋の場合には現場近くでブロックを製作し組み立てていくプレキャスト工法もしばしば用いられる。
橋桁の現場におけるおもな架設方法として,足場式架設法,ケーブル架設法,カンチレバー架設法,フローティング架設法がある。足場式架設法は木または鋼製の仮足場の上に橋桁を組み立てるか,あるいはあらかじめ組み立てた桁を仮足場上を移動させ,閉合後に足場を撤去するもので,桁下高が小さく,桁下の土地を利用しうる場合に適する。ケーブル架設法は架設用の塔にケーブルを張り渡し,これを利用して橋桁を組み立てていくもので,アーチなどの架設によく使われ,つり橋の架設もおのずからこの方法になる。カンチレバー架設法は橋桁を端から順次突き出して組み立てていくもので,場合により中間足場や支持用ケーブルを併用する。連続橋,ゲルバー橋,斜張橋などに用いられることが多い。フローティング架設法は桁下が水面である場合に,はしけやクレーン船を使ってブロックを運搬架設する方法である。海上や河口に架かる橋では大型クレーン船を用いて,巨大な橋桁を一括架設してしまうこともある。以上の各工法は組み合わせて使われることもあり,現地の条件に応じてさまざまなくふうがなされる。下部構造,とくに基礎の施工にも各種の工法が開発されてきたが,現場の諸条件,工法によりかなり事情が異なるので,施工計画,施工管理を慎重に行う必要がある。
執筆者:伊藤 学
古代における橋には,大河川に架ける大規模な労働力や技術を必要とする橋から,小河川に架ける打橋や棚橋などの簡便な橋までさまざまな橋がみられる。とくに前者は国家による要路確保のため,国郡司が徭役労働を徴発して架橋やその修理を行うのが原則であった。しかし国家による積極的な架橋はみられず,むしろ僧侶が民間に宗教的協力をよびかけ,その提供労働力によって架橋や修理を行うことが多かった。例えば,道昭の宇治橋や山崎橋,行基の泉橋・高瀬大橋・山崎橋・長柄橋・中江橋・堀江橋などをはじめとし,民間布教の教化と密接にかかわった架橋などが多くみられる。主要な橋には保全管理をする橋守がおかれた場合もあった。また衛士や兵士が常駐したり,非常事態に交通の取締りを行う場合もあった。なお,奈良時代から平安時代初期にかけての遺跡である奈良県大和郡山市稗田遺跡からは橋脚が出土している。
執筆者:幸田 憲
律令制度の衰退に伴い,交通路はしぜん荒廃していった。中世には鎌倉幕府が鎌倉市内や京都との連絡路の東海道など,室町幕府が京都市内やその周辺などの直接支配地や重要街道に限って,橋の造替にかかわったにすぎない。幕府の直接手の及ばぬ荘園や国衙領では,荘園領主や国司などが橋の造替の責任者であるべきだったが,実際はほとんど現地の人に委ねられた。そのため架橋技術の発達はあまり見られず,橋の整備も古代よりむしろ後退した。中世の名橋は宇治・瀬田・山崎(後の淀橋)の3橋であるが,しかしそれも断続を繰り返した。中世の橋の遺構の唯一のものは,鎌倉時代の初め稲毛三郎重成が,相模川に架した相模川橋の橋脚で,橋幅4間半,今残る橋の長さ17間,橋脚の最大のものは周囲7尺にも上り,最小でも6尺を下らない。橋幅は後の山城の淀大橋に匹敵し,落成式に臨んだ源頼朝が落馬して,それが原因で死んだという因縁のある橋で,当時を代表する橋といえよう。しかし,中世では桁橋は比較的少なく,文献に出る橋は多く浮橋すなわち船橋であり,渡河施設としてはむしろ渡舟が主だったようである。しかもそのいずれをも欠くところが多く,旅人は難渋した。熊野街道は少なくとも鎌倉時代の中ごろまで,また四国地方に至っては,江戸時代の初期まで,その大半の川に何らの渡河施設がなく,徒渉であった。橋は大半現地の者によって建設されるためそまつで,そのうえ旅人に無料利用を認めず,過大な橋賃を徴して,旅人を悩ますことが多かった。こうした行政の怠慢を補い,旅人の難渋の救済に立ち上がったのは僧侶であった。鎌倉時代初め東大寺再建の勧進僧俊乗坊重源(ちようげん)は,摂津渡辺橋・長柄橋,近江瀬田橋そのほかの架橋に関係し,鎌倉中ごろ,鎌倉極楽寺の忍性も,道路の修築71ヵ所,架橋実に189ヵ所に及んだが,そのほか僧侶の架橋は中世を通じ数多い。戦国時代になると戦国大名は領内河川の渡渉施設に強い関心を払ったが,軍事目的が主で,まにあわせの船橋や渡舟が多かった。その後天下統一を果たした,信長,秀吉などの手によって,恒久的な桁橋が続々と建設されるようになった。
執筆者:新城 常三
近世には一種の中央集権的政治体制がとられたため,街道,道路をはじめ交通も整備され,架橋も盛んに行われていった時代といえる。江戸では,徳川家康が1590年(天正18)入国以降,まず架橋工事に着手したといわれる。1603年(慶長8)日本橋が架橋され,翌年には全国街道の起点,里程の元標と定められた。隅田川には軍事上の見地から奥州街道を結ぶ千住大橋以外は架橋されなかったが,57年(明暦3)の大火(振袖火事)が川辺で多数の犠牲者を出したため架橋の方針に変わった。61年(寛文1)に幅4間,長さ94間の両国橋,93年(元禄6)に新大橋,98年に永代橋が架けられている。江戸の橋は幕府の費用で修築維持される御入用橋と,町人の維持による町橋とがある。幕府の財政難が深刻になると橋維持が重荷となり,1736年(元文1)には両国橋,永代橋,新大橋,日本橋,京橋など主要道路に架けられた御入用橋を町人の定請負制として出費を抑え,永代橋は普請料の名で銭1文の渡橋銭を徴収することにしている。44年(延享1)には町橋となった新大橋が2文の渡橋銭をとることになった。1809年(文化6)には菱垣廻船問屋十組問屋が出願し,永代橋,新大橋,大川橋の架橋,修復を永久に引き受けるという三橋会所が設立されるが,この会所も19年(文政2)には廃止に至っており,橋の維持管理に苦労していることが知られる。
大坂では,幕府の責任で施工する公儀橋と,町人が費用を負担する町人橋の2種類がある。公儀橋は鴫野橋,京橋,野田橋,備前島橋,天満橋,天神橋,難波橋,高麗橋,本町橋,農人橋,長堀橋,日本橋の12橋で,いずれも大坂城周辺にほぼ限定されていることからも軍事上の目的であったことは明らかである。大部分をしめる町人橋の運営には,橋清掃や小修繕など日常的な管理維持,修理工事,新規掛直し(皆造工事)の3種があり,橋詰にある町を橋本町と称し管理維持の責任を負った。修理工事までは橋本町だけが出金するが,皆造工事では橋本町のほかに橋掛町と称して橋筋の道路に面した町々からも出金し,余内銀(補助金)と称してさらに広範囲からも集金している。たとえば心斎橋の1739年(元文4)の皆造工事は総費用が銀15貫926匁であるが,橋本町である心斎町と長堀十丁目が総費用の半額を出銀し,橋筋にある南北20町が残りの半額を負担している。それも橋から遠ざかる1町ごとに出銀額を1割ずつ減額するという計算であり,受益者負担的な意識を示していよう。戎橋では渡橋銭を徴収していたが,修理費にも足らない額であり,橋組合町によって維持されているといえる。このような方法は他の都市や農村においても同様で,軍事上の場合を除き自普請が行われ,住民の負担で架橋維持が果たされていた。
執筆者:乾 宏巳
向こう岸へ渡るための唯一の道である橋は,峠と同様に,こちらの世界から別の世界に移行する通路として,境に位置する空間と認識されてきた。日本の川は急流が多く,橋を架けるには非常な困難が伴う。さらに架橋された後も,その維持のために力を注がねばならない。そのために橋のたもとで,水神をまつり,水神の加護を必要とした。橋工事の最中に人柱(ひとばしら)をたてたという伝説は,〈長柄(ながら)の人柱〉の故事で知られるが,一般に橋のたもとに女神がまつられ,悪霊を防ぎ,橋を加護するという信仰があった。実際に人柱をたてたというより,橋のたもとで,水神をまつる巫女のイメージが,橋姫伝説を生み出したとする説が有力である。
橋があの世とこの世の境にあたる部分として意識されていたことは,橋のたもとに亡霊が現れたり,関東地方で生まれたばかりの赤子を橋のたもとにつれていきお参りしたという伝承からうかがえる。橋の名称に注意すると,たとえば,〈戻り橋〉というのは,昔,西行がここにきて,子どもと問答して,行く末が暗示され,そのまま橋を渡らず引き返したというモティーフである。京都一条堀川の一条戻橋は,橋のところで死者が蘇生(そせい)した話に由来する。平安時代の学者三善清行が死んだとき,子の浄蔵貴所は,熊野参詣の途次で不在だった。急いで帰京したが,すでに葬列は橋の上にさしかかっていた。そこで懸命に祈禱を行い,死んだ父親を橋の上で生き返らせた。あの世から死者が戻ったので〈戻り橋〉の名称になったというのである。またこの橋の下に安倍晴明が十二神を鎮めまつっており,占うときに十二神をよび出すと,かならず十二神が出現して託宣するという言い伝えもあった。橋占とも結びついて説かれているが,橋とその周辺の空間が,明らかに境であったことが示されている。なお,駒止め橋,駒返し橋なども馬が引き返したという由来によっており,やはりあの世へいく直前に止まった場所という意識があるのだろう。
〈橋の夢〉という昔話は,夢のお告げで,橋上で幸運を得たというモティーフである。主人公は炭焼きで,夢中に仙人が現れ,橋の上に立てばよいことがあると告げられる。しかし4日間たっても何も得られない。5日目に豆腐屋がきて,橋の上ではなく,自分の屋敷の杉の木の下に金銀が埋まっていると告げる。そこで炭焼きがそのとおりにすると財宝が得られ,たちまち長者となったという。橋が神秘を説くのにふさわしい場所とされたのは,やはり橋の境界性によるものである。〈姿不見(すがたみず)橋〉とか〈面影橋〉という名称も,この世のものではない存在が,見え隠れする場所であったことに由来する。そのことを端的に表現する〈幽霊橋〉もある。昔,この橋の上で座頭が殺され,その幽霊が明け方橋の向こう側に渡り,また戻ってくる足音が聞こえるという伝説が伴っている。
執筆者:宮田 登
橋占は橋のほとりや橋上に立って,往来の人のことばで吉凶を占うことである。橋や水辺は,神,とくに水神の示現する場所とされ,人通りの少ない暁や宵にそこに立って神意をうかがったので,朝占夕占(あさけゆうけ)とも呼ばれた。〈ささやきの橋〉の名称は,占いを求めてその橋を渡ると,神の霊示があるとされたことに由来する。京都島原の遊廓の前にあった〈思案橋〉は,橋占のためにその上をしばらく行きつ戻りつしたことにちなんでおり,その脇には見返り柳のような神の宿る木も植えられていた。姿不見橋,面影橋などの名称も,これらと一連のものである。渡辺綱が鬼女に会い,腕を切り落としたといわれる,京都の〈一条戻橋〉は,橋占で名高い。この橋は,死刑を執行する〈果ての二十日〉(12月20日)に罪人が立ち寄り,餅と花を供えて,次にこの世に戻ってくるときは真人間になれと申し渡されたところでもある。第2次世界大戦中は,出征兵士がこの橋を渡って出発すると,無事帰還するともいわれた。近世には,聖(ひじり)や行者が橋のたもとに住んで,往来の人に勧進したり,占いをしたりする辻占風の者も見受けられた。
執筆者:鈴木 正崇
橋梁建設の技術は古代ローマにおいて高度に発達していたが,スペインや南イタリア以外の地域では中世に入ると衰退していった。すでに古代においてライン川のような川幅の広い川にも橋を架ける試みがなされている。ゲルマン人との戦いののち,カエサルはライン川に橋を架けようとし,《ガリア戦記》に次のように記している。〈河の深さに応じて量り,やや端を尖らせた太さ約1ペス半(歩尺1ペスは約1フィート)の木材を2本それぞれ2ペスの間をおいて結び合わせた。これを機械で河へ入れて固定し,杙のように垂直にではなく,河の流れに応じて前に倒れるように傾斜させてから槌で打ちこんだ。これから40ペスほど下流に,同じように結び合した2本を河の流れと力に抗わせて置いた。これら二つの上にその木材の結び目があけている幅の太さ2ペスの木材が置かれ,二つはそれぞれの端で両側から留木で固められた。このような間隔をおいて,互いに逆の方向に結び固められていたから,仕事のしっかりしていることと,自然の状態に適っていたため,水の力が強くあたればあたるほど,いよいよ固く結ばれて保たれるということになった。それが縦に置かれた木材でつなげられ,その上を長い竿や編柴で蔽ったのである。なおまた杙が更にその下流に斜に打ち込まれたが,これは支柱として添え置かれたもので,工事全部と結合して河の力を受け止めていた〉(近山金次訳)。この橋は全長430mもあり,前55年に約10日間で建設されたといわれている。
カエサルのライン架橋はローマの経済力と武力を背景にした大規模な国家的工事であったが,中世においては技術の点でも経済力の点でも大規模な橋梁建設は困難になっていた。中世の人々は川の浅瀬を選んでは渡河していたのである。ドイツ語のフルトFurthとは浅瀬を意味し,フランクフルトやエルフルト,オクセンフルトなどはそのような地名に由来するものである。しかし12,13世紀以降都市が成立し,遠隔地商人の群れが遠くロシアや南イタリアからもドイツまで姿を現すようになると,橋梁建設の必要が増大してくる。フランクフルトのマイン橋が初めて史料に言及されていたと伝えられているのは1035年であるが,その文書は失われており,現存している最古の史料は1235年5月6日にハインリヒ7世がフランクフルト市に与えた特許状である。そこで王はフランクフルト市民に冬の洪水で破損した橋の修理に貨幣収入の半分をあて,帝国国有林から木材を伐り出すことを認めている。この橋は当時すでに石柱の上に木の板を張ったものであったとみられる。このころの橋は半円形であったが,技術が未熟で橋脚が少なく,1135年にドナウ川に架けられたレーゲンスブルクの橋には10~16mごとに橋脚がたてられ,その間に半円形に橋板が渡された。橋脚の間隙が広かったために強度に弱点があった。1176年から1209年にかけてはロンドンのテムズ川に橋が架けられたが,この橋も九つの半円形の橋板をもつものであった。中世の橋には屋根がないものが多かったが,城の濠に架けられた橋や,都市の市門に面した橋には塔が設置され,ときにはつり橋がつくられて,防衛上の役割をも果たしていた。しばしば橋のたもとには門番のための館や旅人のための宿,小聖堂が建てられており,ときには橋の上に小売屋台が並んでいる場合もあった。
ローマ教皇の正式名称は最高の司教Pontifex maximusであるが,このPontifexとは橋を架ける人の意であり,古代ローマにおいて国家祭祀のなかで重要な位置を占めていた橋を架ける人Pontifexの名称が国家の長の名称となり,教皇もその称号を用いることになったのである。橋は地上から天国に至る道ともみられていた。すでにキリスト教が入る以前からライン川は死者の国への流れとされており,〈ラインを越える〉とは〈死ぬ〉ことをも意味していた。古ゲルマン時代以来のこのような伝承はキリスト教受容ののちも形を変えながら生き残っていった。すでに古代北欧のルーン文字の刻まれた石碑には,死者が生存中に自分の死後の救いのために橋を架けさせたことが伝えられている。キリスト教会はこのような古い伝承を贖宥(しよくゆう)符のなかに生かしたといってもよいであろう。1300年にイタリアの司教数名がフランクフルトのマイン橋を修理する費用を調達するために贖宥符を発行している。マイン橋の修理に喜捨を出す者は相当の罪のゆるしを得て霊の救いを約束されたのである。
橋がこのような宗教的な性格をもっていたことはアビニョンの橋をめぐる聖ベネゼの伝説にみることができる。聖ベネゼが12歳の少年のころ羊の番をしていると突然幻覚に襲われ,〈アビニョンへいきてローヌ川に橋を架けよ〉という声が聞こえた。さっそくアビニョンの町にいき,神のことばを実行するように人々に説いたが聞き入れられなかったため,少年は30人の男がようやくもちあげられるような大きな石をローヌ川に1人で投げこみ,橋桁の最初の基礎をつくった。この奇跡によって人々は動かされ,橋の建設にとりかかったという。橋の建設が困難な事業であっただけでなく,橋の維持も財政的にむずかしかったから各地に橋梁建設兄弟団が生まれ,建設と維持に当たっていた。橋に喜捨することによって天国での救いを得ようとする人々が競って寄進をし,兄弟団を支えたのである。
橋は他の場所とは異質な空間であったから,裁判集会の場となったり刑場となることもあった。また中世の農村では死者を墓まで運んだ板に死者の名を彫りこみ,その板を小川の板橋とした。死者が川を越えて生者を渡し,その上を渡る者は死者の名をとなえて冥福を祈ったのである。
執筆者:阿部 謹也
橋脳あるいは脳橋ともいう。脳において,上方は中脳に,下方は延髄に続く部分で,イタリアのバロリCostanzo Varoli(1543?-75)により〈橋〉と名づけられたので,〈バロリの橋〉ともいう。橋の上面には小脳があり,左右で3対の上,中,下の小脳脚により橋と結ばれている。このようにして上壁は小脳,側壁は小脳脚,下壁は橋で囲まれた空間が橋の上面にできる。この空間は第四脳室と呼ばれ,髄液(脳脊髄液)で満たされている。橋からは三叉(さんさ)神経と外転神経が,橋と延髄の移行部からは顔面神経と内耳神経などの脳神経が出る。橋の内部には,これらの脳神経の核や脳の上位または下位の中枢と結合する神経路が多数存在する。
三叉神経には運動性の繊維と感覚性の繊維とがある。運動性の繊維は,運動核から出て下顎についている咀嚼(そしやく)筋を支配する。これによって下顎を動かして食物をかむことができる。感覚性の繊維は,頭部や顔面の皮膚と頭部や顔面の内部(脳硬膜,鼻腔,口腔,歯髄,歯肉,舌)からの痛覚,触覚,圧覚,温覚などの感覚を三叉神経の感覚の核に伝える。この核からは,交差して反対側の視床に達し,そこから大脳皮質の感覚の領域に行く経路が出る。外転神経は外転神経核から出て,眼球を動かす筋肉のうち,眼球を外側に向ける働きをする筋肉を支配する。この神経が傷害されると眼球を外側に向けることができなくなる。顔面神経は顔面神経核から出て,顔にある表情筋を支配する。すなわち,顔面の表情筋を収縮させて感情を表現する働きのほか,眼瞼(まぶた)を閉じるとか,くちびるを動かして言葉を発音する働きを行う。この顔面神経の傷害された状態を顔面神経麻痺と呼ぶ。また橋からは中間神経と呼ぶ神経が出て,顔面神経といっしょに走る。この神経には,上唾液核から出て涙腺(涙)や顎下腺(唾液)の分泌を促進する分泌繊維と,舌の前の部分の味覚を孤束核に伝える味覚繊維とが含まれている。顔面神経の損傷のとき,損傷の場所により,このような機能が損なわれることがある。内耳神経は蝸牛神経と前庭神経とからできている。蝸牛神経は内耳の蝸牛からいろいろの周波数の音の情報を蝸牛神経核に伝える。この核から出た経路は脳内でいくつかの中継核を介して,大脳皮質の聴覚の領域に達する。前庭神経は内耳の半規管,円形囊,卵形囊などから,頭の位置や傾きなどの平衡覚を前庭神経核に伝える。前庭神経核からはおもに三つの経路となって,これらの情報が他の部位に伝えられる。第1は小脳に,第2は脊髄に行く経路で,運動の際,身体の平衡を保つための反射や筋肉の緊張を調節する。第3は眼球を動かす筋肉を支配する神経核(動眼神経核,滑車神経核,外転神経核)と複雑な結合をする経路である。このようにして,身体の動きに合わせて,眼球の運動を反射的に調節している(前庭動眼反射)。その結果,頭が動いているときでも,映像のぶれを生ずることなく外界の物体を注視したり,動いている外界の物体を追跡して見つづけることができる。内耳神経に腫瘍のできることがあるが,そのような場合,耳鳴り,難聴,めまいを起こすようになる。
橋はまた神経路が終わったり,通過したりするところである。橋の腹側部(底部)には非常に大きな神経路が通っている。第1は錐体路である。これは大脳皮質の運動の領域から下行して来て随意運動を行う経路である。橋を通過した後は,延髄の運動性脳神経核に終わり,ついで交差して脊髄を下行し,脊髄前柱の運動細胞に終わる。橋では三叉神経運動核,顔面神経核に終わり,これらの神経による運動を随意に行う働きをする。第2の経路は皮質橋路で,広く大脳皮質のいろいろの領域から下行して来て橋の底部にある橋核に結合する。この経路は一部には大脳皮質からの運動の指令を小脳に伝え,運動が円滑にまた正確に行えるように働いている。橋の背側部には,脊髄や延髄から起こり上行する脊髄視床路や内側毛帯が通っている。これらは顔面を除く身体の反対側からの温覚,痛覚,触覚,圧覚などを伝えるたいせつな経路である。このように橋は重要な働きをする脳神経が出たり,またたいせつな経路が通過したりする脳の部分となっている。
→脳
執筆者:松下 松雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
道路、鉄道、水路、パイプラインなどが河川、湖沼、海峡、凹地や他の交通路などの上を乗り越えるために建設される各種の構造物の総称。橋梁(きょうりょう)ともいう。橋はその機能を十分に果たすように環境状況に応じて種々の形態が考案されている。橋は公共的な性格をもつので、その機能を安全に長期にわたり維持することが優先され、同時に経済性も要求される。また日常の生活空間の一部として環境や景観とよく調和することも必要である。
橋の計画、設計、架設を取り扱う専門分野を橋梁工学という。橋梁工学に関連する学問領域は、応用力学、構造工学、材料学、地盤工学、河川工学、交通工学、耐震工学、気象学、環境工学、工業デザインなど多方面にわたる。橋梁工学はこれらの各分野から必要なものを抽出、摂取して総合工学として高度に発展してきた。最近では優秀な材料の開発、溶接やプレストレス技術の進歩、架設法の進歩改良と電子計算機を用いた解析・設計法の長足の進歩とともに橋梁工学は著しく進展し、ほぼ自在な形態をもち強度的にも造形美にも優れた構造が可能となってきた。一方、設計の自動化、製作、架設の合理化、省力化も進み、長大橋でも短期日で架橋されるようになった。
[小林昭一]
人類が橋をつくるようになったのは有史以前のはるか昔にさかのぼる。最初は樹幹を用いた丸太橋(まるたばし)や植物のツルやツタなどを利用した吊橋(つりばし)が生まれたであろう。人の移動や物資輸送の必要性が高まるにつれて、原始的な丸太橋は渡りやすいように、またより強いものへとしだいに改良されていったであろう。石材を用いた橋はかなり遅れて現れたようである。
現存する古代の橋で名高いのはローマ人の建造した石造アーチ橋である。彼らはローマだけでなく、ローマ帝国の勢力の及んだ各地に巨大な建造物を残している。ローマ郊外のアッピア水道橋(前300ころ)、スペインのセゴビア水道橋、ニームのガール橋(前63~前13)などは有名である。
ローマ帝国の滅亡後は石造アーチ構法もしばらく衰退していたが、9世紀から16世紀にかけて、ローマ時代のものに比べて大規模で技術的に進んだ石造アーチ橋が多く架けられるようになった。なかでもスペインのサン・マルチン橋(1212)、イタリア、フィレンツェのベッキオ橋(14世紀、橋上に商店が並ぶ)、ベネチアのリアルト階廊橋(1588~1592)などは著名である。石造アーチ技術は中国でも発達し、北京(ペキン)南西の盧溝橋(ろこうきょう)(1192)のような美しい橋を残している。16世紀に入るとその技術は主としてフランスに継承され、理論的な解析も試みられるようになった。19世紀になると石から鉄へ、やがて鋼やコンクリートが用いられるようになり、石造アーチ橋の時代は終わった。しかしアーチ橋の技術は鋼やコンクリートという新しい素材を得て急速に発展し、大支間の架橋が可能となった。
一方、木材を用いた橋では樹幹をそのまま桁(けた)として使用する限り大きな発展はなかった。1560~1580年ごろイタリアのパラディオが木材を組み合わせたトラス橋を考案したといわれているが、その後200年間はほとんど発展せず、1758年にスイスのグルベンマンJ. U. Grubenmannがライン川に木造トラス橋を架設したころから注目され始めた。初期のトラス橋にはアーチの影響もみられるが、しだいに木材の特性を生かした多様な構造形式のものが現れるようになった。木造トラス橋は主としてアメリカ合衆国で改良発達し、19世紀なかばで今日みるような構造がほぼ確定した。ハウ・トラスHowe trussは1830年に、プラット・トラスPratt trussは1844年に現れている。やがて張力部材に鉄を用いた木鉄混合トラス橋が誕生し、ついで全部材に鉄を用いた鉄橋、さらに鋼橋へと発展していった。アメリカ合衆国では1860年ごろに錬鉄が、1872年ごろに鋼が使用されるようになった。なお、1864年ごろドイツのゲルバーJohann Gottfried Heinrich Gerber(1832―1912)がゲルバー桁(けた)を考案し、1867年にゲルバー・トラス橋を架設している。初期の本格的な鋼トラス橋にはアメリカ合衆国、セントルイスのイーズ橋(1874、支間158メートル)、イギリスのフォース橋(1890、支間521メートル、全橋長2.4キロメートル)などがある。フォース橋はゲルバー形式で現在でも鉄道橋として使用されている。これと同形式の橋では世界最大支間549メートルを誇るカナダのケベック橋(1917)が有名である。この橋は架設中に部材の座屈によって二度も崩壊事故を起こし、座屈の重要さを知らしめる端緒ともなった。大阪の港大橋(みなとおおはし)(1974、支間510メートル)は世界第3位の支間長である。
桁橋(けたばし)では1850年にイギリスのメナイ海峡にブリタニア箱桁橋(最大支間141.7メートル)が架設された。この橋は箱の中に列車を通す画期的な構造となっており、今日の箱桁橋の先駆である。そのころリバプール運河に錬鉄製のプレートガーダー鉄道橋(1846、支間18メートル)も架けられた。桁橋の基本的な形はほぼこの時代にできあがったといえる。その後、鋼やコンクリート材料の高強度化と溶接技術と施工技術の進歩、解析法の発展と相まって適用支間長はしだいに伸びてきた。桁橋は通常の支間長でももっとも多用されている。
吊橋(つりばし)は張力の優れた鉄材が用いられるようになって復活し、1800年代から錬鉄製のチェーンや針金を用いたものが架けられ始めた。吊橋は主としてイギリスとアメリカ合衆国とで発達した。平坦(へいたん)な路面を確保し、動揺を防ぐ補剛方法などもくふうされ、1883年にはニューヨークにブルックリン吊橋(主径間486メートル)が架けられた。20世紀に入ると高張力鋼ケーブルの発達とともに急速に長大化し、ニューヨークのジョージ・ワシントン橋(1932、中央支間1067メートル)、サンフランシスコのゴールデン・ゲート橋(1937、中央支間1280メートル)、ニューヨークのベラザーノ・ナローズ橋(1964、中央支間1298メートル)、イギリスのハンバー橋(1981、中央支間1410メートル)などと長大吊橋が次々と架けられてきた。
構造技術の進歩は種々の構造形態をも生み出した。なかでも斜張橋(しゃちょうきょう)は特筆に値しよう。今日の斜張橋に類似した橋梁形式はすでに18世紀後半よりヨーロッパで例をみる。ロンドンのアルバート・ケッテン橋(1870、中央支間122メートル)は唯一の現存する例であるが、この形式は約1世紀の間、省みられなかった。1948年に旧西ドイツの橋の設計に斜張橋案が提出され、にわかに注目され始めた。1955年に旧西ドイツの技術でスウェーデンに最大支間182.6メートルのストレームズンド橋が架設されたのを皮切りに、まず旧西ドイツを中心に発達し、しだいに各国に普及した。斜張橋は箱桁と鋼床版(しょうばん)の使用によりますます長大化している。
最近の橋梁技術は、高張力鋼、高強度コンクリートなど高品質の優秀な特性の材料に支えられ、溶接技術やプレストレス技術の進歩、工場製作法や各種の架設法と下部工や基礎施工技術の進歩とともに長足の発展を遂げ、高速電子計算機を用いた高度の解析、設計と相まって、種々の環境状況に応じて自在な形態をもち、経済的で環境とも調和する構成ができる域にまで達している。
[小林昭一]
日本には二、三の木造や石造アーチ橋を除けば、明治時代に入って西欧の影響を受けた橋が出現するまでみるべきものはほとんどない。史実に残る最古の橋は仁徳(にんとく)天皇時代に摂津の国にあったという猪甘津(いかいのつ)の橋であろう。推古(すいこ)天皇の時代には百済(くだら)から架橋技術が伝えられたという。その後、唐橋(からはし)という日本庭園橋形式が生まれ、社寺建築と並んで室町時代から江戸時代にかけて発展したが、一般の道路構造物としては発達しなかった。古橋は多くは木造であったためにほとんど現存せず、伝承された遺構をみるだけである。岩国の錦帯橋(きんたいきょう)、甲斐(かい)の猿橋(さるはし)、日光の神橋(しんきょう)、木曽(きそ)の桟(かけはし)などいずれも木橋である。錦帯橋、猿橋は日本三奇橋に数えられ、また、神橋、木曽の桟も、それぞれ前二橋とあわせて三奇橋の一つとされることがある。これらは木造建築の手法を応用したものであるが、下部構造にも築城技術などと関連した優れた土木技術が使われている。錦帯橋は1673年(延宝1)に当時の岩国藩主吉川広嘉(きっかわひろよし)の計画、指揮によって架けられた径間35メートルの世界でも珍しい木造アーチ橋であり、巧妙で合理的な構成は貴重な文化遺産の一つでもある。明治以前には橋を架けたり維持、修繕をするのは主として僧侶(そうりょ)と武家であった。宇治橋や京都の五条橋は前者、古相模(こさがみ)川橋、錦帯橋や江戸日本橋は後者による例である。江戸日本橋は1603年(慶長8)徳川家康が架け、ここを全国の里程の基点としたことはよく知られている。
江戸時代になって、中国、オランダなどからの技術の導入もあり、九州地方に石造アーチ橋が数多く架けられた。架橋技術は秘伝として守られていたためか、その他の地方へは普及しなかった。長崎の眼鏡橋(めがねばし)(1648)、諫早(いさはや)の眼鏡橋(1839)、熊本の通潤橋(つうじゅんきょう)(1854)などは現存する名橋である。通潤橋は逆サイホン構造の水路を28メートルの支間で渡す水路橋であり、構築の巧妙さには驚くべきものがある。
日本の近代橋梁は、明治初期にヨーロッパとほとんど同時期に鉄製の橋を架けたときに始まる。その後、鉄道や道路の発達とともに橋の需要は増大し、技術の進展を伴ってしだいに本格的な橋梁が架けられるようになった。さらに関東大震災後の復興事業として東京の隅田(すみだ)川に各種の大橋梁が数多く架けられるに及んで、日本の橋梁技術は世界的技術水準に達した。第二次世界大戦後は戦禍で失われた橋の復興と、それに引き続く交通網の整備拡充に伴っておびただしい数の橋が架設されている。この間に橋梁技術は地震や台風という日本独特の不利な条件を克服しつつ発展し、いまや世界第一級の技術を誇るまでになっている。
[小林昭一]
橋はおよそ次のように分類される。
[小林昭一]
(1)道路橋、(2)鉄道橋、(3)水路橋に大別される。道路橋は自動車交通のために架設される橋である。歩行者専用の橋は歩道橋という。鉄道橋は鉄道専用の橋で、軌道を設置する。水路橋は水道、灌漑(かんがい)用水、発電用水などを通す橋である。水路橋のうちで管路を渡すものを管路橋という。二つ以上の用途を兼ねるものを併用橋という。
[小林昭一]
(1)河川橋、(2)陸橋、(3)高架橋などに大別される。河川橋は河川、海峡、湖沼、湿地などを越えて架けられるもの、陸橋は陸上の凹地に架設されるものである。高架橋は平地上に通路を高くする目的で架設され、市内高速道路橋や立体交差に用いられる。道路を横断してその上に架ける橋を架道橋、鉄道線路上を横断する橋を跨線(こせん)橋という。歩道橋も高架橋の一種である。
[小林昭一]
(1)桁橋、(2)トラス橋、(3)アーチ橋、(4)ラーメン橋、(5)吊橋、(6)斜張橋、(7)複合形式など。桁橋は丸太橋のように木桁、鋼桁、コンクリート桁などを水平に架け渡したものである。鋼板や山形鋼を組み合わせてI形断面桁としたプレートガーダー橋、鋼板やコンクリートで箱形断面の桁を構成した箱桁橋などがある。トラス橋はトラスで主構を構成した橋である。部材の組み方によりハウHowe、プラットPratt、ワーレンWarenなど多くの形式がある。アーチ橋は材料を圧縮材として使用したアーチ形状の橋である。最近のものでは曲げや剪断(せんだん)にも抵抗できるように設計されたものも多い。ラーメン橋は桁と橋脚を一体として剛結したもので、架道橋に多い。吊橋は材料の引張り抵抗力を利用した形式で、空中に張り渡したケーブルが主体である。通行用の路面確保と変形防止のために補剛桁を設ける。ケーブルを支持するための塔や引張り力を大地に伝えるアンカー、補剛材を吊り下げるハンガーなどが必要である。斜張橋は、主桁を塔から斜めに張ったケーブルにより支持する構造の橋である。複合形式は桁、アーチ、ラーメン、引張り材などを組み合わせたものである。この種の橋も多い。代表的なものは考案者の名をつけてよばれている。ランガーLanger橋は軸圧縮のみに抵抗するアーチと桁やトラスの複合構造、ローゼLohse橋はリブ・アーチと桁やトラスの複合構造、ニールセンNielssen橋はランガー橋またはローゼ橋でハンガー(引張り材)を斜めに張ったものである。フィレンデールVirendeelはトラスの斜材を取り去って弦材と柱材とを剛結した構造で、ラーメン構造の一種である。斜張橋は桁構造を引張り材で支える特殊な複合構造ともいえる。
[小林昭一]
(1)鋼橋、(2)鉄筋コンクリート橋、(3)プレストレストコンクリート橋、(4)木橋、(5)石工橋、(6)軽合金橋(アルミニウム橋)など。異なる材料を一体として用いた合成橋もある。
[小林昭一]
通路面の位置により分類すると、通路が橋桁上部にあるものを上路橋、下部にあるものを下路橋、中間部にあるものを中路橋という。上下に2層の通路のある二層橋もある。支持方式によっては単純桁、連続桁、ゲルバー桁(カンチレバー桁)などに分けられる。橋の平面形状によって分けると直橋(ちょくきょう)、斜橋(しゃきょう)、曲線橋などとなる。橋体が動くか否かによっては可動橋、固定橋、可搬橋などに分けられる。
[小林昭一]
材料のもつ特性をもっとも有効に利用するためには、それに適した構造形式を採用する必要がある。石材やコンクリートは圧縮には強いが引張りには弱いのでアーチのような構造に適し、木材は圧縮、引張り、曲げ、剪断(せんだん)などに抵抗するので、軽量である利点ともあわせて比較的自由に使用できるが、強度は高くなく、腐食するので耐久性は劣る。鋼は重量、強度の点で非常に優れており、加工性もよく接合することも容易であるので、薄肉の部材を構成するのに適する。鋼橋は多くの材片を接合し、部材を組み立てて構成されるので接合性は重要である。リベットによる接合には種々の制約があったが、溶接技術の発達と普及によってこの問題は一挙に解決した。その結果、鋼の長所をいっそう生かした構成が可能となった。鋼床版や箱桁形式が生まれ、曲線橋や重層構造などの複雑な構造の架設も容易となった。現場での接合には高力ボルトも採用されることが多い。
一方、コンクリートを用いる場合にも、コンクリートの弱点を鋼棒で補った鉄筋コンクリート構造、さらに高張力鋼の線材や棒を用いて構造内に積極的に圧縮力を導入したプレストレストコンクリート構造が普及するに及んでコンクリート橋は飛躍的に発展した。最近の高強度鋼と高強度コンクリートの発達は構造形式の選択の自由度を増し、また新しい構造形態をも可能とした。しかし曲げや圧縮を受ける部材では座屈を避けるために断面が大きくなるので、鋼部材では不経済となる。圧縮部を鉄筋コンクリート床版と一体とした合成桁は、鋼とコンクリートとの特性を有利に用いた経済的な形式である。
[小林昭一]
標準的な橋は上部構造、下部構造と基礎より構成される。上部構造は直接荷重を支持し通路を形成する部分、下部構造は橋脚、橋台、アンカー、支塔など上部構造を支持する部分、基礎構造は下部構造本体からの力を大地に伝達すると同時に橋をしっかりと固定する部分である。橋の形式によっては上記のように明瞭(めいりょう)には区別できないものもある。
[小林昭一]
上部構造は、通路を形成する床構造、それを直接支える床組、本体である主構造、および橋を立体的に構成し風、地震などの横方向荷重に抵抗する横構や対傾構からなる。このほかに上部構と下部構との間には支承が設置される。鉄道橋では床を用いずに軌道を直接取り付けたものも多い。道路橋の上路形式のプレートガーダーのように主桁の上に直接鉄筋コンクリート床版を設ければ床組は不要である。アーチ橋、吊橋、斜張橋では平坦(へいたん)な路面を形成する必要からかならず床組が必要となる。トラス橋でも同様である。
床構造としては鉄筋コンクリート床版や縦横にリブで補剛した鋼床板が用いられる。床組は普通には横桁と縦桁とで構成される格子状構造である。橋にはほかに付属施設が設けられる。路面排水施設、伸縮継目、高欄(こうらん)、照明灯、鉄道橋では監査用通路などである。電纜(でんらん)管、ガス管、水道管などを付設することもある。
[小林昭一]
下部構造は橋脚と橋台とに大別される。橋脚は橋の中間部にあって上部構造を支え、橋台は橋の両端部にあって上部構造を支えると同時に背面の土圧にも抵抗する。両者とも鉄筋コンクリートでつくられることが多い。これらには種々の形式があるが、上部構造からの荷重だけでなく、地震の影響、地形、地盤の特性なども考慮して設計される。普通には重力式、半重力式の壁形式のものを用いるが、都市内高架高速道路などではラーメン形式とかT型柱形式などがよく用いられる。
[小林昭一]
基礎は大別すると直接基礎、杭(くい)基礎、ケーソン基礎、井筒(いづつ)基礎、鋼管矢板井筒基礎などとなる。基礎は地盤の状況、支持すべき荷重の大きさなどにより各種のものが選定される。堅固な岩盤が露出していれば特別な基礎は不要である。地盤が軟弱なほどしっかりした基礎が必要となる。堅固な地盤が地表から浅い所にあれば、支持層まで掘削してコンクリートを打設する直接基礎でよい。支持層が深くなれば、木、コンクリート、鋼の杭を打ち込み、その支持力に期待する。ケーソンや井筒基礎は鉄筋コンクリート製の箱や筒を地盤内に、内部底面の土砂を排出しながら支持層まで沈下させたものである。なかでも圧気潜函(せんかん)(ニューマチック・ケーソン)pneumatic caissonでは、内部で人が作業できるように水圧に対抗した圧搾空気を送り込む。このほかの大型基礎として、大口径の鋼管を多数連結しつつ打ち込んで全体として井筒形状をつくりあげる鋼管矢板井筒基礎もしばしば用いられる。特殊なものでは、本州四国連絡橋の基礎のように、海中に鋼ケーソンを沈設し砕石を詰めたのちモルタルを注入してコンクリート基礎に仕上げるプレパックド工法も採用される。
[小林昭一]
橋の架設工法は計画当初から形式選定とともに検討され、設計作業が進められる。架設工法の目標は、(1)橋を所定の形状に仕上げること、(2)所定の力の配分状態にすること、(3)合理的で安全な施工をすること、である。架設工法は以下のように大別される。
[小林昭一]
(1)一括架設法 クレーンなどで吊り上げて組み上げた状態のままで一括架設するもの。(2)片持式架設法 橋体を片持ち梁(ばり)のように張り出していって架設する方法。両側から張り出す場合と橋脚から両側へ平衡を保ちながら張り出す場合とがある。アーチ橋などでは控えケーブルで途中を吊りながら張り出すこともある。斜張橋はケーブルを利用して架設する。これらの架設法によれば橋下空間に支障はない。
さらに使用する機械により分類すると、(1)クレーンを用いる方法、(2)架設用の桁を用いる方法、(3)引出し式工法などとなる。引出し式工法は、手前で組み立てた橋をケーブル、台車、台船などで支持しながら引き出すものである。
[小林昭一]
組み上げた足場の上で組立て作業を行う方法。鉄筋コンクリート橋では足場の上に型枠を組み、鉄筋を配置してコンクリートを打設する。橋が完成すると足場は取り除く。この工法はもっとも安全で広く用いられている。
[小林昭一]
両側に塔を建て、上方にケーブルを張り渡し、それから部材を吊って組み立てる方法。トラス部材のように軽量部材の組立てには有利である。吊橋はこの架設法による。ケーブルは変形しやすいので形状の調整に配慮を要する。
いずれの架設法を選ぼうとも、架設に際しては周辺に障害を生じないように留意することが必要である。
[小林昭一]
一つの橋が完成するまでの手順は普通には次のようである。架橋の必要性が生じると、まず(1)架橋地点の地形、地質、気象、地震などの自然条件と交通状況、経済効果、用地取得、環境などの社会的条件について資料の収集や各種の調査を行う。(2)橋の形式、使用材料、下部構造、基礎工法、架設方法などの技術的検討と工事費の概算を行う。環境アセスメントも重要である。この段階ではいくつかの試案を比較検討する。(3)採択された案について、所定の設計示方に基づいて詳細設計および架設法を検討する。(4)工事が発注され、受注者は製作・架設工事を開始する。(5)完成すれば竣工(しゅんこう)検査が行われ、合格すれば工事費が支払われる。
現在では作業は各段階ごとに分業の形で行われる。計画は企業者、主として官公庁が行い、調査、設計は企業者の監督のもとにコンサルタントが行うことが多く、製作、施工は専門業者に分担される。企業者は各段階を通じて作業の監督、検査、判定、調整を行い、完成したものの認定および維持、管理などを行う。最近では計画、設計の段階で電子計算機が活用され、製図まで一貫した自動設計なども実現している。また製作、施工の過程でも自動化やロボット化が図られている。
[小林昭一]
橋は単に交通路の一部として機能するにとどまらず、その両側の地域を心理的に結び付けるような役目を果たすとともに、人間の力と知恵の象徴としての記念碑的な意味をもつので橋には美しさもまた必要である。橋のもつ美しさを構成する要素の第一は形式美である。橋は各部材が均衡を保ちながら好ましく整った形に構成されると全体として安定感のある形式美が現れる。第二は機能美である。力学的に合理的でつり合いのとれた構造は各部分にむだがなく、寸分のすきもなく外力に抵抗しているので力の緊張感があり、活発な力に満ちた機能美が現れる。
橋は形式美と機能美とによってそれ自体の技術美を創出するが、それだけでは十分ではない。橋はかならず架橋地点の自然や他の構造物といっしょにみられるので、環境との調和を図ることもたいせつである。橋の色彩は環境に調和し、橋の形態にも合致するよう十分に配慮されねばならない。
[小林昭一]
水中に石を配置して渡りやすくした「飛び石」、密林地帯でツタ・縄を用いたブランコ型のくふうなどは、橋発生以前の渡河技術とみることができよう。交通量が一定水準に達すれば、籠(かご)編みの発展した文化では軽便な吊橋(つりばし)を、小さくない樹木を渡河地点周辺で利用できる環境にある文化では丸木橋、湿地帯の埋め橋などの小さな橋をつくって渡河を容易にするのが一般的だった。環濠(かんごう)集落の出入り用の橋が、家屋建築の軸組、アーチ工法を応用して建設され、集落規模と環濠幅の拡大により、しだいに長大化した。車を用いる地域では土をかぶせるなどにより通行を容易にした。長大な橋の建設には大量の労働力、資財投下を要し、維持費も高いから、渡河には不都合な車を用いた大量かつ敏速な移動・運搬が主要な交通手段にならない限り架橋効果はないので、長大橋をつくらない時代が長く続いた地域が多い。歴史時代に入っても、移動の途中で徒渉困難な水面が行く手を遮れば、浅瀬まで迂回(うかい)して徒渉するか、水上交通を利用するなどにより、高価な長大橋を建設するのを避けるのが普通だった。一時的に大量の人間・物資を徒渉困難な地点で迅速に渡河させる必要が生じれば、舟を並べて板をのせた「舟橋(ふなばし)」を利用すればよかった。
大人数を拘束的日程に従って、城壁と水面に囲まれた都市間を舟運よりも早い速度で移動させる状況、実際には戦車・騎兵の出入りの必要が生じて、まず都市周囲の水面上の長大橋架橋が意味をもち始めたと考えられる。ゾロアスター教に起源し、イスラム教とともに拡散して、環地中海地域全域に変形しながら広がり、南アジア、東アジアにも影響を及ぼして、橋に関する超自然思想の母体となった「最後の審判の際に善人のみが渡りうる細く長い橋」の終末論的観念は、長大橋の軍事目的と関連した起源をもつのかもしれない。ただし、都市環濠に設けた長大橋は原則として籠城(ろうじょう)時の撤去の便を考えた仮設的な木造橋だったらしい。また、大都市周辺では集中する物資を運ぶ水上交通が発達することが多く、舟運を妨げるのを避けるには高くて橋脚の少ない橋をつくる必要があるうえに、防衛上の配慮もあって、長大橋の建設は限定されがちだった。
都市のある文化が最初に出現したメソポタミア、エジプト両地域では当初は長大橋をつくらなかったとみられる。仮設的長大橋は紀元前二千年紀から架橋されたとみられるが、今日確認できる恒久的長大橋ではティグリス川と大環濠に囲まれたアッシリアの旧都アッシュールの外郭橋(前7世紀以前)がもっとも古い。カルデア王ネブカドネザル2世の建造によるバビロン東西市街間のユーフラテス川上のアダド通り橋はこれよりも新しい(前6世紀)から、アッシリア時代に籠城の心配のない大都市から大量の戦車からなる威容を整えた軍勢が出入りする慣行が成立し、恒久長大橋の建設が始まったと考えるべきだろう。
首都ローマのスブリキウス橋で特別な祭礼を行い、ポンティフェクス(橋の建造者)が宗教的指導者、のちに支配者を意味したローマ帝国では、軍事行動と関連した恒久橋の架橋が盛んで、木造または石造橋脚に木造部分をのせた長大橋が辺境にもつくられた。イスラム諸国では、渡河容易な河川の多い乾燥地帯が多く、都市周辺の徒渉困難な内水面を貢納・交易物質の大量運搬の幹線とし、渡河用舟運も発達したので、長大橋の建設はまれだった。イスタンブール、デリーなどの中世イスラム大国家の首都周辺の水面上に長大橋がみられなかったのはその例である。ローマ帝国から「ポンティフェクス」を継承して11世紀以降ローマ教皇の別称とした中世ヨーロッパでは、12世紀末ごろから交通・流通の発達を背景に、長大橋を含む交通路および宿泊施設の建設を組織的に進めた。当初は巡礼用施設の側面が強調され、宗教的奉仕団が長大橋を架橋し、隣接して建設した教会が橋の維持管理にあたり、アビニョンの橋に関する聖ベネゼの伝説などが成立した。のちには商業の発達に伴って、周辺に集落が成立して商業的機能が増大し、長大橋自体が商業集積になる例も現れた。
中国北部の古代城壁都市成立期には戦車が使用されたので、都市周囲の幅員のある環濠には、早くから発達した木造の橋が建設され、それ以降は環地中海地域と類似した発展を遂げた。軸組工法によったとみられる中央部のやや高くなった木造長大橋を意味する「橋」が、丸木橋の「杠(こう)」、揚子江(ようすこう)下流地域に多かった土橋の「圯(い)」などの小さな橋と古くから区別されて意識されていたのは、早い時期から長大橋が発達した結果だろう。「飛び石、堤」の意味もある「梁」は本来魚労用の「簗(やな)」の意味で用いたが、古くから橋の意に転じ、通行人に踏まれ続ける「橋梁」は恥辱を忍ぶことのたとえとなった。
中国北部で発達した長大橋の建造技術は紀元前後から東アジア全域に拡散し始め、日本でも8世紀ころから都城周辺で長大橋の建設が始まった。しかし、戦国時代まで徒渉困難な水面の渡河には舟運・浮き橋(舟橋)を利用するのが普通で、京都、鎌倉を中心とした地域および幹線道路に主として僧侶(そうりょ)の勧進(かんじん)による若干の長大橋(宇治橋、山崎橋、堀江橋など)が架橋されるにとどまった。16世紀末から恒久的長大橋の架橋が増え始め、とくに17世紀後半からは大都市での建設数が増えたが、幹線でも架橋を避けたのは、東海道の大井川渡河にみるとおりである。西アジア起源とみられる橋の超自然観は、日本に到達するまでに大きく変形するとともに、橋の守護神格への信仰(人柱思想、橋姫伝説、橋占(はしうら)などに発展)、橋およびその周辺の他界観(とくに京都一条堀川の一条戻橋(もどりばし)の諸説話)などが多様に展開した。
[佐々木明]
『成瀬泰雄・来島武著『世界の橋』(1967・森北出版)』▽『小西一郎編『鋼橋』(1975・丸善)』▽『山本宏著『橋梁美学』(1980・森北出版)』▽『上田篤著『橋と日本人』(岩波新書)』▽『G・メドベド著、成瀬輝男監修・訳『世界の橋物語』(1999・山海堂)』▽『E. B. MockThe Architecture of Bridges(1949, The Museum of Modern Art, New York)』
中脳と延髄の間にある部分で、小脳とともに後脳を構成する。後脳の背側部分が小脳であり、腹側部分が橋(きょう)である。小脳と橋との間には部屋があり、これは第四脳室の上半部にあたる。橋という名称は、脳底からみると、左右の小脳半球を橋のように連絡しているようにみえるためにつけられたものである。橋の腹側面正中部には縦走する浅い溝があり、ここを脳底動脈が通っている。橋が腹側に著明に隆起突出している形態は、高等動物がもつ特徴である。高等動物では、大脳半球の皮質から橋、とくにその腹側部(橋底部)に大量の神経線維群(錐体路(すいたいろ)、皮質橋核路)が下行してきており、大脳半球の発達に伴って橋底部も発達している。橋底部には、そのほか、橋核とよぶ神経細胞群が散在性に存在し、小脳皮質に神経線維群を送っている。この神経線維群は橋底部内で横走している。橋の腹側外面には横走する多数の「しわ」がみられるが、これらのしわは、横走神経線維群がつくるしわである。橋の背側部(橋背部あるいは橋被蓋(ひがい)という)は、第5~第8脳神経の起始細胞群や、上行性、下行性の神経伝導路が錯綜(さくそう)して走っている。第5脳神経(三叉(さんさ)神経)は橋腹側面のほぼ中央外側部からおこり、同じ腹側面の橋と延髄の境の部分で、正中線よりやや外側から第6脳神経(外転神経)、さらにその外側部から第7脳神経(顔面神経、中間神経を含む)、第8脳神経(内耳神経=前庭神経+蝸牛(かぎゅう)神経)がおこる。内耳神経の出る部分は、ちょうど、橋、延髄、小脳の境界部にあたり、小脳橋角とよばれるが、小脳橋核腫(しゅ)(神経鞘腫(しょうしゅ))の好発部位として臨床上、重要視されている。なお、日本人の橋正中部の長さは約2.6センチメートルである。
[嶋井和世]
アメリカの詩人H・クレーンの長編詩。1930年刊。アメリカ的文明の背景と現代人の意識を絡み合わせた難解な作品。T・S・エリオットの『荒地(あれち)』に読み取る崩壊のビジョンに対抗して創作したもの。アメリカの伝説的人物や国民的英雄、コロンブス、ポカホンタス、リップ・バン・ウィンクル、ポー、ホイットマンらを登場させ、地下鉄、ブルックリン橋などを詩的シンボルとして用い、アメリカの過去と機械文明の現在に詩的、神話的架橋工作を施そうと試みる。詩句が難解で明確を欠くため、この野心作は失敗とみなされがちである。
[徳永暢三]
『楜沢厚生訳『ハート・クレイン詩集』(1969・国文社)』
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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…その数年前に出たエリオットの《荒地》の悲観主義にあきたらず,ホイットマンの楽天主義を受けついだアメリカの一大叙事詩を書こうとして,パトロンの支援をえてキューバに出かけ,一連の美しい象徴詩風の抒情詩を書き上げた。その詩集《橋》(1930)は,彼のアメリカの夢をよく歌い上げた力作で,とくにニューヨークのブルックリン橋に寄せた美しい序詩は忘れがたい。その後は詩作上ゆきづまり,1932年の4月27日にメキシコから帰る船の上から身を投げて死んだ。…
…酢の物やあえ物には米酢がよく,すしには東京では赤酢とも呼ばれるかす酢,関西では精製された米酢を多く用いる。なべ料理などに用いられるぽん酢は,オランダ語のポンスponsの当て字で,ダイダイ,スダチなどの果汁に酢を加えて味をととのえる。また,酢には強い殺菌力,防腐力があり,これを利用して魚貝類などの酢漬,酢じめ,酢洗いが行われる。…
…側脳室を囲む部分を終脳(正確には,左右の大脳半球と終脳の不対部),第三脳室を囲む部分を間脳,中脳水道を囲む部分を中脳,第四脳室を囲む部分を菱脳とする。さらに菱脳の前半部(後脳)からは小脳と橋(きよう)が分化し,菱脳の後半部は延髄(髄脳)として脊髄に連続する。 成人の脊髄は身長の28~29%の長さがあるが(日本人では40~47cm),脳と脊髄の重量比は約55対1であり,中枢神経系において脳の占める割合がいかに大きいかがわかる。…
…陶材ジャケット冠は,強い力が加わると割れやすい欠点がある。(3)ブリッジbridge 1歯ないし数歯が欠損した場合に,その前後に残っている歯を支台として,ちょうど橋をかけたようなぐあいに,歯のぬけた部分を補う形の義歯。たとえば,下あごの第1大臼歯が欠損した場合,その前後の第2小臼歯と第2大臼歯には金属冠を装着するようにし,それに同種の金属で作った歯冠の形をしたものを蠟づけ(二つの金属を金属用蠟でつなぎあわすこと)してブリッジとする。…
…弦楽器の部品で,弦を適当な高さに支えて,その振動を胴に伝えて共鳴させる役割をもつもの。英語では,その形から橋に相当するブリッジbridgeという。ギターやマンドリンのように固定式のものと,バイオリンや三味線のように可動式のものがある。…
…義歯の一種。歯が抜けたところに入る人工的な歯の部分と,それを支えるために両隣の歯に設けた支持部とから構成され,橋のような構造をしていることからブリッジあるいは橋義歯と呼ばれる。人工的な歯には金属や陶材,プラスチックが用いられるが,支持部と人工歯部との連結部分には金属が使われる。支持部(支台装置)には金属冠や継続歯などが多く使われ,一般に支えになる歯(支台歯)と歯科用セメントによって固定される。しかし,支持部を二重構造にしてその一部を歯に固定し,ブリッジ自体は患者がとりはずせるようにしたものもある。…
…カードゲームの一種。正しくはコントラクト・ブリッジcontract bridgeという。現在,世界中でもっとも競技人口の多いカードゲームと思われる。専門の解説書もチェスと並んで数多く出版されている。日本で誤ってブリッジまたはセブン・ブリッジと呼ばれているラミー系のゲームではない。ホイストという伝統的なイギリスのゲームが,スコアリングシステムを変更して1910年代にオークション・ブリッジに変身し,20年代にコントラクト・ブリッジのルールが確立された。…
…レスリングは世界最古のスポーツといわれ,人類の起源とともにあった競技である。人類がその生存,生き残りをかけて,生活の重要な手段として発展してきた格闘競技である。対人競技に属し,日本の相撲,柔道や,サンボ,モンゴル相撲,インド相撲,中国相撲の摔跤(シュアイジャオ)なども含まれるが,スポーツの種目としてはオリンピックで実施されているレスリング競技を指し,フリースタイルレスリングfree style wrestling,グレコローマンレスリングGreco‐Roman style wrestlingの二つの種目がある。…
…これは鉄筋コンクリート部材の曲げ強さを計算している現在の式の原形である。日本で土木構造物に鉄筋コンクリートが初めて使用されたのは,1903年の琵琶湖疎水山科運河日岡トンネル東口の支間7.45mの弧形単桁橋といわれる。その後,23年の関東大震災を機にして鉄筋コンクリート構造物の耐震性,耐火性が認識され,鉄筋コンクリートの利用が広範に推し進められるきっかけとなった。…
…土木技術はもっとも古い歴史をもつ技術といわれる。人類が登場して生活を営み始めるにあたって,竪穴住居をつくるにしてもまず土地を掘削する必要があったし,歩いていくためには原始的な道を切り開いたり,木の橋を架け渡さなければならなかったであろう。農耕が始まればそのための灌漑や排水のための施設が不可欠となり,さらに権力の象徴としての大規模な墳墓などもつくられている。…
…橋のたもとに橋姫とか橋姫明神とかいって,橋の神霊がまつられることが多い。山城の宇治の橋姫や摂津の長柄(ながら)の橋姫は有名だが,京都の五条橋(今の松原橋)や近江の瀬田橋のたもとにも橋姫がまつられていた。…
※「橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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