中牧村(読み)なかまきむら

日本歴史地名大系 「中牧村」の解説

中牧村
なかまきむら

[現在地名]信州新町中牧

東は田沢たざわ(現長野市)桑原くわばら村(現更埴こうしよく市)、南は大岡おおおか村(現更級さらしな大岡村)に境しひじり山嶺に達する。西は南牧みなみまき村、北はさい川に面している。地形は南に高く北に低い。

村の北部低地の下中牧しもなかまき縄文土器を出土する。

石津いしづの南西北へ傾斜した尾根に中牧城跡がある。中牧氏の築いた山城である。中牧氏は、馬場信房の牧之島まきのしま城衆に組み入れられているので、牧之島城外郭の支城であった。

聖山北山麓の湧水樋沢ひざわ川や大花見おおげみ池があって、早くから水田が開設された。今も水田地帯の中心地である。

慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)では「五百三拾九石九斗四升四合 中牧村」である。


中牧村
なかまきむら

[現在地名]岡山市中牧、御津みつ御津町中牧

下牧しもまき村の北、旭川右岸に位置し、同川は当地で大きく蛇行する。対岸野々口ののくち(現御津町)。村の中央にそびえるかみの山(二二六メートル)の北・西麓に枝村の湯須ゆす十谷とたに(現御津町)がある。耕地は旭川の氾濫原および谷間に階段状に分布し、山際集落が散在する。高瀬船の寄港地であり、船稼が行われていた。正保郷帳に載る上の山南麓の枝村江(郷)は貞享三年(一六八六)本村に編入された(撮要録)


中牧村
なかまきむら

[現在地名]朽木村中牧

針畑はりはた川上流にあり、西は生杉おいすぎ村・小入谷おにゆうだに村、東は能家のうげ村。寛永石高帳では小林こばやし村とともに高が記され、一五二石余。慶安高辻帳でも同様で、田方八九石余・畑方六三石余。天明村高帳では単独で記され、高一二〇石余。天保郷帳では高一二五石余。明治七年(一八七四)小林村と合併、中牧小林村と称したが、同一二年中牧村となる。


中牧村
なかまきむら

[現在地名]多気町まき

北牧きたまき村の西にある。初瀬はせ(伊勢)本街道が集落の南を走り、鍋倉なべくら峠の西入口までが中牧である。同峠の西入口北麓付近は字扇館おうぎやかたといい、南方山上に標高一〇〇メートルの牧城跡がある。「五鈴遺響」に「北畠家臣岡小四郎住」と記され、扇館の中央部に岡小四郎を祖先とする岡氏宅がある。岡氏蔵古文書箱裏書に文禄元年(一五九二)と記され、九尺柄の長槍と多気城古地図がある。


中牧村
なかまきむら

[現在地名]祖父江町中牧

東は上牧かんまき村、北は下祖父江しもそぶえ村で、西は佐屋さや(とどめき川とも)が南流する。「寛文覚書」によれば、概高二九四石六斗余、田五町八反三畝余・畑二三町九反一畝余、家数五〇、人数二五六。また木曾川支流のとどめき川の流木を留めたときは、規定賃銭を受取り、水出時に堤を囲む杭木を公儀より預かる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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