中間村(読み)なかまむら

日本歴史地名大系 「中間村」の解説

中間村
なかまむら

[現在地名]中間市中間一―四丁目・東中間ひがしなかま一―三丁目・中間・新町しんまち中尾なかお一―四丁目・中央ちゆうおう一―五丁目・長津ながつ一―三丁目・中鶴なかづる一―四丁目・浄花町じようかまち岩瀬いわせ一―三丁目・蓮花寺れんげじ一―三丁目・上蓮花寺かみれんげじ一―四丁目・太賀たが一―四丁目・通谷とおりたに一―六丁目・ほしおか桜台さくらだい一―二丁目・鍋山町なべやままち朝霧あさぎり一―五丁目・おうぎうら一―四丁目・まつおか池田いけだ一―二丁目・深坂ふかさか一―二丁目・小田おだうら一―二丁目・弥生やよい一―二丁目・大根土おおねと大辻町おおつじまち七重町ななえまち

現市域の南東部、遠賀おんが川中流右岸に位置する。東は下上津役しもこうじやく(現北九州市八幡西区)、南は楠橋くすばし(現同上)、南西は鞍手くらて下大隈しもおおくま村、遠賀川を挟んで西は垣生はぶ村、北は岩瀬いわせ村。集落は本村のほかに鳥森とりもり片峯かたみね・蓮花寺(「れんげいじ」ともいう)古庵ふるあん・朝霧・大辻・屋戸やど、中託(中鶴か)中島なかしま浄花寺じようかじ(「じょうけいじ」ともいう)などがあり(続風土記拾遺)、大辻・片峯・蓮花寺は枝郷として扱われて大辻村・片峯村蓮花寺村ともいった(続風土記)。うち大辻村は元禄国絵図・天保郷帳などでは中間村枝郷と注記され、一村として高付されている。なお「惣社神社書上帳」によると、慶長(一五九六―一六一五)以前当村は大辻村・蓮花寺村・中間村の三ヵ村からなり、三ヵ村のうちでは大辻村が古村であったという(中間市史)。至徳元年(一三八四)九月二七日の麻生義助知行目録写(麻生文書/南北朝遺文(九州編)五)に「一所 中間郷内御立隈七町」とみえる。文安五年(一四四八)八月の麻生弘家知行目録写(同文書/筑前麻生文書)にも内々帳面、公役の時の答分ともに「五十五町 仲間郷」(ただし答分では「中間郷」とある)とみえ、中間郷は南北朝期以降麻生氏惣領の支配下にあった。


中間村
なかまむら

[現在地名]浦添市仲間なかま・仲間一―三丁目・伊祖いそ一丁目・同四丁目・当山とうやま安波茶あはちや一丁目・同三丁目・大平おおひら一丁目

現浦添市のほぼ中央部、小湾こわん川上流右岸および牧港まきみなと川中流左岸の浦添断層崖上に位置。仲間村とも記され、里積記には中真村とある。西海道に沿い、北方を普天間ふてんま(現宜野湾市)への参詣道が縦貫する。古くから浦添うらしー間切の中心地でもとは浦添うらしー村と称し、「おもろさうし」巻一五の二八などに「うらおそい」、「中山伝信録」に「浦添」などとみえ、現在もウラシーともよばれる。古くは安波茶あはちや村を含んだといわれる(浦添市史)。東に浦添うらそえグスクがあり、咸淳年間(一二六五―七四)には禅鑑により極楽寺(のち龍福寺)が創建された(「球陽」英祖王二年条、「琉球神道記」など)

絵図郷村帳に「中間村」とある。琉球国高究帳には「なかま村」とみえ高頭四〇八石余、うち田三一九石余・畠八八石余。康熙一五年(一六七六)頃、尚貞王世子の尚純が当村と普天間ふていま(現宜野湾市)間の道(西海道)に並木松を植えることを命じている(「羽地家家之伝物語」法政大学沖縄文化研究所蔵)。当村には浦添間切の番所が置かれていた。雍正一一年(一七三三)王府経営の茶園が設けられた。棚原たなばる山、別称葉竹ようちく山の二万八五〇歩余に和漢の茶種が植えられ、調製して国用に供された(「球陽」尚敬王二一年条、「琉球資料」)。一八八二年(明治一五年)頃には年約五〇斤を製し、おもに尚家に供された。


中間村
なかまむら

[現在地名]淀江町中間

小波こなみ村の南西、北流する佐陀さだ川下流右岸に位置する。中世は一帯に中間庄が成立し、「伯耆志」に「中間庄の名当村に起る」とある。「伯耆之巻」には元弘三年(一三三三)船上せんじよう(現赤碕町)の合戦の際、中間藤七郎が土豪の稲井瀬氏や梶岡氏に対して天皇方に味方するように伝えたとあり、中間藤七郎は当地在住の土豪と推測される。会見あいみ郡に属し、藩政期の拝領高四三二石余、本免三ツ九歩。倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。藪役銀八分余が課されていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高六三三石余、竈数四八。「伯耆志」によれば支村亀甲かめのこうがあり、林一町四反、家数五一・人数二二七。


中間村
なかまむら

[現在地名]大屋町中間

いかだ村の西、大屋川の流域に位置する。中心集落の中間のほかに枝郷の栗の下くりのしたがあり、栗の下で若杉わかす川が大屋川右岸に合流する。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「中ま」と冠して、をさき新兵衛殿・をさき与次郎殿・松谷二郎兵衛殿などの名がみえる。江戸時代の領主の変遷は大屋市場おおやいちば村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では大屋庄高九八七石余のうちに含まれて高付されていたと思われる。


中間村
なかつまむら

[現在地名]高松市中間町

御厩みまや村の南、どう(三〇二メートル)の北東麓に位置。古代の香川郡中間郷(和名抄)の遺称地。同郷は中世にも存続し、応安二年(一三六九)北朝より三木みき氷上ひかみ郷とともに後鳥羽院御影堂(現大阪府三島郡島本町)へ寄進され(同年四月一四日「後光厳天皇綸旨」水無瀬神宮文書)、応永一七年(一四一〇)には足利義満によって安堵されている(同年一二月二一日「畠山満家奉書案」同文書)

慶長六年(一六〇一)当地などの一四二石余が比々与三(矢原正方)に宛行われ(→御厩村、同一七年には中間の七〇石が尾池玄蕃に預け置かれている(「生駒正俊預ケ状」生駒家宝簡集)


中間村
なかまむら

[現在地名]豊野村中間

北西および南西以外の地域を、北の水晶すいしよう山、東の津留つる岳などの山陵で占められ、中央部を東西に小熊野おぐまの川の上流が流れる。東は道善どうぜん坂越で原田はらだ村・津留村・白石野しらいしの(現中央町)、北は糸石いといし村、南は上郷かみごう村、西は下郷しもごう村に接する。正和五年(一三一六)三月日の性妙申状案(舛田文書)に「小野庄与当村中間十余町」とみえる中間は当時小熊野郷内にあった当村のことであろう。寛永二年(一六二五)九月一四日、古田半平宛の忠次宛行状(高宮氏所蔵文書)に「中間村之内八拾三石五斗」とある。


中間村
なーまむら

[現在地名]喜界町中間なかま

滝川たんにやー村の北西に位置し、海に臨む。伊砂いさぐ間切のうちで、元禄五年(一六九二)の喜界島帳留(列朝制度)に伊砂間切与人のとして「中間村」とみえる。享和元年(一八〇一)仮屋(喜界島代官所か)が中間村に移転、慶応三年(一八六七)頃その仮屋が類焼している(喜界島代官記)。明治元年(一八六八)の黒糖産額六万七千二五八斤・甘蔗作付一九町七反余(「製糖調」奄美史料)島中しまなー村とともに亥の日遊びという村祭を行ってきた。これはかつて難産で苦しむ女が多いので占ってもらうと両村の間に猪に似た神石があり、その祟りによるものであったため、この祭事を始めたという。


中間村
なーまむら

[現在地名]与論町那間なま

与論島の北部、朝戸あさと村の北に位置し、北と東西の三方が海に面する。地内に寺崎ていだらき・賀義野・賀補呂がぶろう木根奈きねな増木名ましきな瀬名しいーななどの地名があり、古来からの拝所としてシニグ祭の黒花くるぱなウガンや寺崎ウガンがある。ウガンは御願。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、海岸部に「めなさ」とある。


中間村
なかいだむら

[現在地名]宇和島伊吹いぶき

宇和島城下町の東北方、須賀すが川中流域の村。東は柿原かきはら村、西はしも村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「中間村 茅山有、小川有、日損所」とある。

太閤検地の石高は四〇八石六斗、耕地面積の比率は田六八パーセント、畑三二パーセントであったが、寛文検地では石高が一パーセント増加し、田六九パーセント、畑三一パーセントとなっている。「墅截」によると、村柄は「中ノ下」、耕地は田が「上ノ下」、畑は「中」、水掛りは「吉」。


中間村
なかいだむら

[現在地名]三間町三間中間みまなかいだ

三間川の支流告森こつもり川の中流域にあり、北は音地おんじ村、南は成藤なるふじ(現広見町)に接する。

近世初期に告森村のうちから分れた村。音地節に「長い谷だよ中間の谷は、三十三尋にひろ足らぬ」と歌われ、帯状の長い中間地帯であるところから「中間」の地名が起こったといわれる。吉田藩領であった。明治一八年(一八八五)頃、宇和島の中間なかいだ村と区別するため三間中間と改められた。


中間村
なかまむら

[現在地名]屋久町中間

湯泊ゆどまり村の北西にあり、北西は栗生くりお村、北東は山岳、南西は海に面する。近世には栗生村の小村として扱われた(薩藩政要録)。明暦三年(一六五七)頃の屋久島大絵図(県立図書館蔵)に村名がみえる。享保一一年(一七二六)検地帳(野村兼太郎氏収集文書)では高一〇石余、水田三反歩があり、八家部、男三八・女三八、馬七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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