改訂新版 世界大百科事典 「九品官人法」の意味・わかりやすい解説
九品官人法 (きゅうひんかんじんほう)
Jiǔ pǐn guān rén fǎ
中国,三国魏から隋初まで行われた官吏登用法。一品から九品にいたる品級で人を官につけるので九品官人法といったが,のちには九品中正制度ともいわれた。220年に曹操が没するや,子の曹丕(そうひ)(のちの魏の文帝)が後漢の献帝に迫って禅譲させ魏王朝を建てた際,漢の官僚を才能徳行に応じて新政府に吸収することを当面の目的として,魏王の尚書であった陳群(?-236)の建議により実施され,その後も引きつづいて一般に官吏を登用するのに用いられた。
まず中央政府に一品から九品にいたる品階による九品官制をたて,漢代までの秩2000石といった秩数による等級に代え,これを官品と称した。つぎに地方の郡に中正という官をおき,その地方出身者の資格審査を委任し,その郡出身の現任官吏あるいは官吏志望者の才能徳行を調査し,その才徳に従って同じく一品から九品にわかって政府に報告させ,これを郷品と称した。政府は,この郷品の九等に対応する適当な官品のポストに登用したのである。漢から魏への禅譲革命が実現したのちも,臨時的な必要から生じた九品官人法がそのまま残って,もっぱら地方の豪族や貴族の子弟が最初に任官する,いわゆる起家の際に適用されることになった。この際に,たとえば郷品三品の者は七品官から起家させるというように,郷品から4等さがった官品から出発させ,最終的に郷品と同じ等級の官品まで昇進させるのが慣例となった。
この法の元来の趣旨は,個人の才徳に応じて朝廷の官位に登用することをねらったのであるが,時あたかも地方の豪族がしだいに勢力をえて特権的な貴族階級を形成せんとする時勢であったので,たちまちに骨抜きにされてしまった。つまり,中正の職に任じられるのは,その地方の有力者であり,郷品をきめる際に同僚や中央の高官となれあって,有力者の子弟を厚遇し,無力者の子弟を冷遇するというようになった。晋代になると,子弟の郷品は世襲的に二品以下には下らない家柄が成立し,門地二品の家と称された。劉毅が〈上品に寒門なく,下品に勢族なし〉と言ったのは,このような状態を的確に評したものである。ところが,やがて門地二品の貴族が多数となるに及んで,その子弟はいずれも六品官で起家するようになり,するとつぎはいかなる六品官であるかにより,秘書郎で起家する王氏,謝氏などの一流貴族と,そうでない貴族とに分かれた。南朝の宋・斉時代は貴族制の全盛時代であるが,それは九品官人法が最も貴族層に有利に運用された結果でもあった。
このような貴族の特権に制限を加えるべく,梁・陳時代には学館での試験や任子の制を復活させたりした。北魏でも孝文帝は華化政策の一環として九品官人法を整えるかたわら,個人の才能を重視するかつての秀才孝廉制度を奨励した。その傾向は東魏,北斉にうけつがれ,隋に至って,このほかに進士の科目が加えられて科挙制度が成立し,九品官人法は廃された。ただし,九品官制そのものは,それとは関係なく,後世まで続いたのである。
→科挙
執筆者:礪波 護
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報