五軒町(読み)ごけんちよう

日本歴史地名大系 「五軒町」の解説

五軒町
ごけんちよう

東山区三条通白川橋東入

三条通の両側に町並を形成する。西は白川。天台座主明雲の三条白川坊がこの地にあったと伝える。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「五軒町、此西の辻は白川橋石橋也。此水源は北白川の山水也。此所へながれ出て、知恩院北門石橋の下を流、祇園新地へ出、縄手通の大和橋を過、四条鴨川筋へ合す」とみえる。粟田口の西端に位置し、街道に沿う枢要の地として開けたが、応仁の乱に荒廃、わずかに五軒の人家が街道に面して立つのみであったのが、町名になったと伝える。寛永二〇年(一六四三)の水帳に「渡辺領字五軒」とみえると、「坊目誌」はいう。


五軒町
ごけんちよう

[現在地名]水戸市五軒町三丁目・さかえ町一―二丁目

広義にはいずみ町とかね町の間の数条に分れた町。すなわち五軒町・泉町うら(裏八王寺町)荒木あらき町・富士山ふじさん町・四木しもくのつじ・信願寺しんがんじ町・うら信願寺町・与力よりき町・並松なみまつ町を合せて五軒町と称する(水府地理温故録、水府地名考)が、元禄三年(一六九〇)の令で「三浦五郎大夫脇より村田友左衛門脇迄五間町」とし(水府地理温故録)、これは下金しもかね町の南に東西に通じる町にあたる。「下金町の南うしろ今長町と称する街」(同書)、「今のなが町と云へる所なり」(水府地名考)、「今ハ専ラ長町ト呼ベリ」(新編常陸国誌)などとあるように実際にはなが町と称したと思われ、町名の由来は「其初諸侍五人の屋敷を被下けるゆへ五軒町と称す由」(水府地理温故録など)という。


五軒町
ごけんちよう

[現在地名]加賀市大聖寺五軒町だいしようじごけんちよう

熊坂くまさか川左岸、川に突き当るように南北に走る道の両側と、その北端から東に折れた川沿いの片側町を町域とする。天明六年(一七八六)の大聖寺絵図に「五間町」とあり、西は観音かんのん町。大部分は町家で、桶屋・蝋屋・指物屋など家内工業的なものが目立つ。弘化三年(一八四六)の覚(西尾文書)によると、当町は東横ひがしよこ町や南の中新道なかしんみちなどとともに「足軽・坊主・御供廻リ御屋敷願候ハバ可被下候」とされた町であった。なお当町の桑原屋八郎右衛門はくし村通いの商人であったが、串茶屋の遊女と城下の若い侍の恋文の連絡役もしていたという(大聖寺藩史)


五軒町
ごけんちよう

東山区大和大路三条下ル西側

東は大和大路やまとおおじ縄手なわて通)、西は鴨川。縄手通に沿って三条大橋東詰の南方に開けた町。寛文六年(一六六六)町地となった時わずか五軒の人家を数えるのみであったという(坊目誌)

延宝二年(一六七四)の四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)の「新屋敷大和大路」のうちに「五軒町」とみえる。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「五軒町 此町東側北に櫓辻子西口あり。其南に西願寺・三縁寺・養福寺・高樹院。右いづれも浄土宗也。


五軒町
ごけんまち

[現在地名]会津若松市行仁町ぎようにんまち旭町あさひまち

上野伏かみのぶし町の北に並び、東西一町四八間余・幅三間余、家数五(新編会津風土記)。正式な町名は中六日なかむいかよこ丁であったが、家数が五軒しかなかったので、一般には五軒町といい、そのほうがわかりやすかった。


五軒町
ごけんまち

[現在地名]鹿角市十和田毛馬内 五軒町

毛馬内けまないの町並中央部の町人町。正徳二年(一七一二)の毛馬内絵図に「五間町」とみえる。また寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」には「五十七軒五軒町」とある。


五軒町
ごけんちよう

下京区東堀川通高辻下ル

南北に通る東堀川通(旧堀川小路)に西面した片側町。

平安京条坊では左京五条二坊三保一二町西側の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図・寛文一二年(一六七二)洛中洛外大図などには「五間丁(町)」とある。一方寛永一八年以前平安城町並図をはじめとする木版図には「高辻堀川町」とあり、両者を併用していたらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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