〈京都・山城寺院神社大事典〉
「日本紀略」正暦五年(九九四)六月二七日条に「為疫神修御霊会、木工寮修理職造神輿二基安置北野船岡山」とあるように、船岡山一帯は疫病流行の折、それを送る御霊会が行われる地の一つであった。「日本紀略」長保三年(一〇〇一)五月九日条に「於紫野祭疫神、号御霊会、依天下疫疾也、是日以前、神殿三宇、瑞垣等、木工寮修理職所造也、又御輿内匠寮造之、京中上下多以集会此社号之今宮、」とあり、船岡山北麓の
その後「百錬抄」久寿元年(一一五四)四月条に「近日、京中児女備風流調鼓笛、参紫野社、世号之夜須礼、有勅禁止」とあり、「やすらい」と号した風流がこの社で行われている。
旧氏家宿の北方にあたり、旧会津中街道の西に沿って参道があり、杉の古木の社叢がある。中世より氏家二四郷の総鎮守で、旧郷社。祭神は素盞嗚尊。「氏家記録伝」(宝暦五年写)に記された社伝によれば、康平三年(一〇六〇)に源頼義の奥州平定に従ってきた藤原宗円が、御霊神を祀ったとある。「下野国誌」には、宇都宮朝綱の五男氏家公頼が
正安二年(一三〇〇)から文禄二年(一五九三)までの祭礼記録である今宮祭祀録(西導寺蔵)があり、中世には今宮あるいは今宮明神、または氏家明神と称されていた。それによると、正安二年に氏家宿の南端にあった「御本社」より現在地の馬場に遷宮し、宇都宮氏と氏家氏などによって新造営が行われ、氏家領内の諸郷に課せられた。
かつては
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市北区紫野(むらさきの)今宮町に鎮座。大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)を祀(まつ)る。一条(いちじょう)天皇の時代に疫病が流行したため994年(正暦5)船岡山(ふなおかやま)で御霊会(ごりょうえ)を行った。しかし再度蔓延(まんえん)したため1001年(長保3)紫野に神殿をつくって疫神を勧請(かんじょう)して御霊会を行ったのが創建で、のちに今宮と称するようになった。なお、摂社の疫神社に素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。旧府社。例祭は10月9日。特殊神事の「やすらい祭」は春の花が散るころ疫神が分散して人を悩ますのを鎮めるための祭りで、4月の第2日曜日に行われる。線彫四面仏石は重要文化財。
[寳來正彦]
…1635年(寛永12)阿部重次が1万3000石で東町に陣屋を置き,西町は翌年朽木稙綱が領有,1649‐1724年(慶安2‐享保9)内田氏3代が陣屋を構えた。押原66郷の総鎮守であった今宮神社は50石の朱印地を与えられ,10月9日の例大祭にくり出される屋台は鹿沼町人の繁栄の象徴であった。【河内 八郎】。…
…京都市北区に鎮座する今宮神社の祭礼。994年(正暦5)国中疫病が流行したため,船岡山に疫神を安置して御霊会(ごりようえ)を営み,その後紫野に神殿を建立し,毎年旧暦5月9日に幣帛を奉り,これを今宮祭と称した。…
…その代表は京都八坂神社の祇園御霊会(ぎおんごりようえ)で,夏季に発生する疫病や水害,干ばつなどの災害は,怨み(うらみ)をのんで横死した人々の亡魂のたたりだと考え,それを御霊とあがめて華麗な山車と鉦や太鼓などの強烈な囃子の行列で慰撫鎮送しようとした(御霊会)。晩春には,桜花の散るのを疫神飛散の兆しとみて,華美な扮装の子女が鼓笛を奏して紫野(京都市)の今宮神社へ道中したのも同じ民俗で(今宮祭),平安朝以後,疫神,亡魂鎮送のために風流を飾り立てた一行が囃子を奏し,はなやかな踊りを見せたりする風俗が各地で見られるようになった。念仏踊も,もとは解脱(げだつ)を求める人々が国中に念仏を唱えつつ共に跳躍する形のものだったが,亡魂を慰撫するには念仏が何よりとの考えから,災害除けにこれを踊り,また盆供養にも念仏踊を手向けるようになった。…
※「今宮神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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