本来、伊勢神宮に参詣(さんけい)するための諸国からの参宮街道をいう。四日市(よっかいち)の日永追分(ひながおいわけ)で東海道と分岐し、伊勢平野を海岸に沿って南下、津、松阪を経て神宮に至るルートを伊勢(本)街道とよぶが、その沿線を含めた広い地域を伊勢路と称することもあり、伊勢国の別称ともなっている。江戸時代に盛んになった「伊勢参り」「お陰参り」でにぎわい、とくに1650年(慶安3)、1705年(宝永2)などのお陰参りの際は毎回200万~300万もの人が伊勢に向かったという。参宮ルートとしては本街道のほか、鈴鹿(すずか)峠を越えて津へ向かう伊勢別街道、伊賀上野から入る伊賀(大和(やまと))街道、名張(なばり)からの北街道、高見峠を越える南(和歌山)街道、南紀州から北上する熊野(くまの)街道などがあり、さらに海上から津や大湊(おおみなと)を経て神宮へのルートもあった。
[伊藤達雄]
広くは伊勢神宮への路すべてを指すが,一般には東海道から鈴鹿駅で分かれて,伊勢神宮に至る伊勢街道をいう場合が多い。江戸時代には脇街道の一つで五街道に次ぐ重要街道であった。四日市の追分で東海道から分岐し,神戸,白子,上野,津,松坂,小俣などを経て山田に至った。このほか東海道の関から津までを伊勢別街道と呼んだ。伊勢街道はとくに江戸時代伊勢参宮客でにぎわい,宿々には遊郭が繁盛した。今日は国道23号線となっている。
執筆者:新城 常三
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伊勢街道・参宮街道とも。広くは伊勢神宮へ行く道の総称だが,ふつう,平安時代には東海道を鈴鹿駅で分岐して伊勢神宮に至る道をいい,江戸時代には東海道の四日市―石薬師宿間の日永の追分から分岐して伊勢神宮に至る約17里半の道筋をいう。神戸(かんべ)・白子(しろこ)・上野・津・松坂・小俣(おばた)・山田の7宿があり,東国からの伊勢参宮者で賑わったほか,東海道と伊勢・志摩両国や南紀を結ぶ交通路であった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…途中の今庄から分かれて,敦賀,小浜,宮津を経て但馬の豊岡で山陰道に合する街道もある。
【近畿地方】
近畿に入ると,東海道の四日市または亀山から津,松坂を経て宇治山田に行く伊勢路が神宮参拝者でにぎわったが,さらに南下して尾鷲を通り,新宮,那智,本宮の熊野三社への熊野街道はさらに田辺,和歌山に達する。この間はすべて紀州藩領で,伝馬所が設けられていた。…
…しかし1185年(文治1),源頼朝が駅制を定めて京都・鎌倉間の交通路の整備をはかったので,交通路としての東海道は近江,美濃,尾張,三河,遠江,駿河,伊豆,相模を通過するこの幹線道路をさすようになった。この道を平安時代,すなわち《延喜式》に記載された東海道と比較すると,まず鈴鹿峠を越える伊勢路が,関ヶ原を越える美濃路に変更されていること,また足柄峠を越えたのち相模国府(海老名(えびな)市)より武蔵国府(府中市)にむかって内陸部を進んでいた道が,海岸沿いに鎌倉へ直行するようになったこと,さらにより鎌倉への近道となる芦ノ湖南岸の箱根路,湯坂道が,従来の北の足柄道と同等に利用,整備されるようになったこと等がおもなちがいである。室町時代の京都・鎌倉間は《大乗院日記目録》(応仁2年(1468)12月15日条)によれば,その間120余里,63宿ある。…
※「伊勢路」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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