出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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渡辺津【わたなべのつ】
古代から中世にかけて現在の大阪市の淀川河口にあった港津。九品(くぼん)津・大渡(おおわたり)・窪(くぼ)津ともよばれた。古くから瀬戸内海交通の要衝として重視されたが,805年に摂津国府がここに移ってからは,国衙(こくが)膝下の港としてますます栄えた。また平安中期以降,京都の貴顕による摂津(せっつ)四天王寺・住吉社(住吉大社),紀州熊野・高野(こうや)山などへの参詣が盛行するが,そのほとんどは船で淀川を下り,渡辺に上陸して陸路を南下,帰路はその逆であった。そのため宿泊所・休憩所などの諸施設が拡充,整備され,さらには南海・西国方面からの年貢物を輸送する船が着岸する港となって商工業者の集住も進み,鎌倉初期にかけて港湾集落が急速に形成されていった。こうした時期,渡辺を本拠地として台頭した武士団に渡辺党がある。渡辺党は,多田源氏の源頼光の四天王の一人である渡辺綱(つな)を祖とし,源頼政の郎等として保元・平治の乱を戦い,源平争乱の嚆矢(こうし)となった1180年(治承4年)5月の頼政挙兵のさいにも参加している。一方,港湾集落が発達するにつれ,聖や僧侶によって別所や寺院も建立されていった。東大寺俊乗坊重源(ちょうげん)は渡辺別所の浄土堂で1197年から多くの人を集めてたびたび迎講を催しており,西大寺叡尊(えいぞん)も布教のため立ち寄っている。渡辺津が京都と西国・南海をつなぐ水陸交通の要衝の地として発展するにつれ,軍事上でも重要な位置を占めることになり,戦史にその名をあらわす。なかでも有名なのが南北朝期の楠木正成(まさしげ)・楠木正行(まさつら)父子の渡辺の合戦である。
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