渡辺津(読み)わたなべのつ

日本歴史地名大系 「渡辺津」の解説

渡辺津
わたなべのつ

古代から中世にかけて淀川河口に位置した要津。九品くぼん(宴曲抄)ともよばれた。渡辺とは現在の天満てんま橋付近を中心に、かつての大阪湾に面した広い地域をいう。渡部とも記し、渡辺の地名は大江渡おおえのわたり大渡おおわたりの「渡の辺」より起こったという。渡辺の地名が固定するのは平安中期以後と考えられ、「玉葉」文治三年(一一八七)八月二二日条に「着窪津渡陪也」、同四年九月一五日条に「付渡辺謂之大渡也」と記すように、大渡・くぼ津ともよばれた。渡辺津は古くから瀬戸内海交通の要衝として重視されたが、延暦二四年(八〇五)摂津国府がここに移ってからは、国衙膝下の港として人の往来、船舶の出入がいっそう激しくなった。平安中期以降、京都の貴顕による四天王寺(現天王寺区)住吉(現住吉区)・熊野・高野などへの参詣が盛行するが、「扶桑略記」治安三年(一〇二三)一〇月二八日条に、藤原道長が「国府大渡下」で乗船したと記すのをはじめ、そのほとんどは船で淀川を下り、渡辺に上陸して陸路を南下、帰路はその逆であった。

熊野参詣の行路として熊野街道が発達するなかで、渡辺はその出発点としての位置を占め、いわゆる熊野九十九王子社の第一王子である窪津王子社が設けられ、宿泊所・休憩所などの諸施設も拡大していった。窪津王子はまた渡辺王子(「吉記」承安四年九月二一日条)とよばれることもあった。一方、大江御厨をはじめ久保津くぼつ庄・頭成ずなし庄など庄園も成立したが、それらは港湾関係の運輸・交通面でも重要な役割をもっていた。たとえば、建久八年(一一九七)六月一五日に、東大寺俊乗房重源が弟子の含阿弥陀仏定範に所領・所職を譲ったなかに「渡部別所并木屋敷地」があり、そこには浄土堂のほか九間四方の二階建の倉庫が存在する(「重源譲状」東大寺文書)。この木屋敷地は、東大寺再建のために周防の杣山で伐採した材木を瀬戸内海経由で渡辺まで運搬し、さらに淀川・木津きづ川をさかのぼって奈良まで運ぶための中継保管地としての機能をもつものであり、倉庫も船から陸揚げされた物資を一時収納する施設であったとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「渡辺津」の意味・わかりやすい解説

渡辺津【わたなべのつ】

古代から中世にかけて現在の大阪市の淀川河口にあった港津。九品(くぼん)津・大渡(おおわたり)・窪(くぼ)津ともよばれた。古くから瀬戸内海交通の要衝として重視されたが,805年に摂津国府がここに移ってからは,国衙(こくが)膝下の港としてますます栄えた。また平安中期以降,京都の貴顕による摂津(せっつ)四天王寺・住吉社(住吉大社),紀州熊野高野(こうや)山などへの参詣が盛行するが,そのほとんどは船で淀川を下り,渡辺に上陸して陸路を南下,帰路はその逆であった。そのため宿泊所・休憩所などの諸施設が拡充,整備され,さらには南海・西国方面からの年貢物を輸送する船が着岸する港となって商工業者の集住も進み,鎌倉初期にかけて港湾集落が急速に形成されていった。こうした時期,渡辺を本拠地として台頭した武士団に渡辺党がある。渡辺党は,多田源氏源頼光の四天王の一人である渡辺綱(つな)を祖とし,源頼政の郎等として保元・平治の乱を戦い,源平争乱の嚆矢(こうし)となった1180年(治承4年)5月の頼政挙兵のさいにも参加している。一方,港湾集落が発達するにつれ,や僧侶によって別所や寺院も建立されていった。東大寺俊乗坊重源(ちょうげん)は渡辺別所の浄土堂で1197年から多くの人を集めてたびたび迎講を催しており,西大寺叡尊(えいぞん)も布教のため立ち寄っている。渡辺津が京都と西国・南海をつなぐ水陸交通の要衝の地として発展するにつれ,軍事上でも重要な位置を占めることになり,戦史にその名をあらわす。なかでも有名なのが南北朝期の楠木正成(まさしげ)・楠木正行(まさつら)父子の渡辺の合戦である。

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