江戸後期の大名。出羽(でわ)秋田藩9代藩主。8代義敦(よしあつ)の長子。幼名直丸(なおまる)、次郎。字(あざな)は子政。泰峨(たいか)、如不及斎(にょふきゅうさい)、日新斎、荷風亭(かふうてい)などの号がある。1785年(天明5)11歳で就封、のち従(じゅ)四位下侍従に任ぜられ、右京大夫を襲称した。当時秋田藩は農村の疲弊と財政難の深刻化に悩んでいたので、まず知行借上げの上限を6割にまで強化し、やがて抜本的な大改革を断行した。藩校明道館(のち明徳館)と郷校の設立による人材育成と教学刷新、農・林・鉱・工業にわたる殖産興業の推進を中核とし、職制の整備と人材の登用による政務の刷新などを主要な政策とするものであったが、義和の死没(41歳)によって十分な成果をあげえなかった。しかしこれによって養蚕、漆器、織物などの諸産業の発展が促され、また藩校明徳館の影響も大きかった。なお義和は書画に優れているだけでなく、『東(あずま)の記』『千町田記』その他の紀行集も多く、文人大名としての名も高い。文化(ぶんか)12年7月国元で死没。
[半田市太郎]
『大久保鉄作編・刊『天樹院佐竹義和公』(1916)』
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(金森正也)
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1775.1.1~1815.7.8
江戸後期の大名。出羽国秋田藩主。父は義敦。1785年(天明5)遺領相続。藩政は家老の疋田柳塘・松塘らに任せ,書画や鷹狩に没頭し,「阿山比川道ノ記」「遠山ずり」「東の記」などを著す。在世中,産物方・開発方・銅山方・絹方などが設置されて各種産業やそれらの基礎となる学問が奨励された。
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…注目されるのは,文中に挿入されている彩色絵であり,対象物を正確に写生している点が評価されている。11年秋田藩主佐竹義和(さたけよしまさ)(1775‐1815)の依嘱を受け,出羽6郡の地誌作製に従事した。この地誌は,未完成に終わったが,約46巻にわたる大著であった。…
※「佐竹義和」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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