俊芿(読み)シュンジョウ

デジタル大辞泉 「俊芿」の意味・読み・例文・類語

しゅんじょう【俊芿】

[1166~1227]鎌倉初期の律宗の僧。肥後の人。あざなは我禅。号、不可棄。入宋し、二千余巻の典籍を請来。諸宗を兼学して戒律の復活に尽力した。京都泉涌寺せんにゅうじの開山。大興正法国師。

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精選版 日本国語大辞典 「俊芿」の意味・読み・例文・類語

しゅんじょう【俊芿】

  1. 鎌倉初期の戒律宗の僧。肥後国(熊本県)の人。字(あざな)は我禅。号は不可棄。京都・奈良で勉学ののち郷里に正法寺を創建して、戒律を宣揚。建久一〇年(一一九九)入宋し一二年後に帰国、二千余巻の典籍をもたらし、東山仙遊寺を復興して泉涌寺(せんにゅうじ)と寺号を改め、天台・真言・禅・戒律四宗の道場とした。台律中興の祖と称される。仁安元~安貞元年(一一六六‐一二二七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「俊芿」の意味・わかりやすい解説

俊芿
しゅんじょう
(1166―1227)

平安末から鎌倉初期の戒律厳守の僧。字(あざな)は不可棄(ふかき)、号は我禅房(がぜんぼう)。肥後(ひご)国(熊本県)飽田(あきた)郡に生まれる。生後3日で路傍に捨てられたが、仏縁深く寺僧に育てられ、14歳で真俊(しんしゅん)に天台、真言を学ぶ。27歳より戒律を守って修行に専念、奈良と京都を往復して大小乗の戒律を究めたのち、肥後筒嶽(つつがだけ)(荒尾市)正法寺に蟄居(ちっきょ)、坐禅(ざぜん)持戒して、貴賤(きせん)を教化した。1199年(正治1)渡宋(とそう)、天台山などを経て、径山(きんざん)の蒙庵元聡(もうあんげんそう)(1136―1209)に禅を、四明山(しめいざん)の如庵了宏(にょあんりょうこう)に律を学び、嘉興府(かこうふ)(浙江(せっこう)省)超果教院の北峯宗印(ほくほうそういん)(1149―1214)に8年間天台を学んだ。1211年(建暦1)、律、天台、華厳(けごん)、儒道などの典籍、書画を多数もって帰洛(きらく)した。栄西(えいさい)、貞慶(じょうけい)と交遊。1213年、中原道賢(なかはらどうけん)から東山の仙遊寺(後の泉涌寺(せんにゅうじ))を寄進されて住し、後鳥羽院(ごとばいん)、九条道家(くじょうみちいえ)らと親しんだ。安貞(あんてい)元年、62歳で寂。明治天皇から月輪(がちりん)大師と諡号(しごう)。著書『三千備檢(びけん)』『南山宗旨要抄』などのほか、「清衆規式」「泉涌寺勧進疏(かんじんしょ)」「殿堂房寮色目」などの遺文がある。

[石田充之 2017年7月19日]

『石田充之編『鎌倉仏教成立の研究 俊芿律師』(1972・法蔵館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「俊芿」の意味・わかりやすい解説

俊芿 (しゅんじょう)
生没年:1166-1227(仁安1-安貞1)

鎌倉前期に戒律復興を実践した学僧。京都泉涌(せんにゆう)寺の開山。号は我禅,字(あざな)は不可棄,のち月輪大師(がちりんだいし)と勅諡(ちよくし)された。肥後国(現,熊本県)の出身。19歳のとき太宰府観世音寺で受戒し,やがて京都,奈良に遊学したが,当時の僧界が末法到来にかこつけて破戒無戒の状態であることに満足できず,1199年(正治1)34歳のとき入宋求法(につそうぐほう)の途についた。宋に留まること13年,天台山,径山(きんざん),四明山等の諸方の名刹に遊学,この間,天台,禅,真言,浄土,悉曇(しつたん),儒学を研鑽,とくに戒律は四明山景福寺の如庵了宏に師事して真要を究めた。帰国のとき請来した典籍は,律宗経書327巻,天台章疏716巻,華厳章疏175巻,儒書256巻,雑書463巻,そのほか合わせて2103巻という実に膨大な量だった。数多くの当時の入宋求法の僧のうち,俊芿の勉学は群を抜く感があった。帰国後の1218年(建保6),中原信房から寄せられた洛東の仙遊寺をもとに,これを中興してここに天台,真言,禅も兼宗する戒律興隆の道場の造営に着手した。すなわち泉涌寺である。彼自筆の有名な《泉涌寺勧縁疏》(国宝)はこのとき堂宇造営の浄財を諸方に求めたもので,堂々たる黄山谷流の書風である。彼に帰依する者は,後鳥羽・順徳両帝,北条政子,北条泰時などの権門から,下は広く庶民に及び,その戒律復興の運動は鎌倉仏教界に大きな衝撃を与えた。後世その戒律を北京律という。

 俊芿滅後の1242年(仁治3)に没した四条天皇は,生前から俊芿の生れ変りと世に伝えられ,大葬も泉涌寺で執行され,遺骸は,表面に不可棄法師と刻された俊芿の石造卵塔墓のかたわらに葬られた。この由縁を契機に,幕末まで多くの天皇・女院の陵墓が,泉涌寺の後にある俊芿と四条天皇の廟所に接して営まれた。いわゆる天皇家の月輪(つきのわ)陵である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「俊芿」の意味・わかりやすい解説

俊芿
しゅんじょう

[生]永万2 (1166).8.14.
[没]嘉禄3 (1227).3.8. 京都
平安時代末期から鎌倉時代の僧。戒律宗北宋律の開祖。肥後の人。字は我禅。号は不可棄。勅号は大興正法国師,勅諡は月輪大師。14歳のとき飯田山の真俊の弟子となり,18歳で出家,翌年観世音寺で具足戒を受けた。建久10(1199)年弟子安秀,長賀とともに入宋。天台山,径山,四明山などの諸寺を歴訪し,戒律,天台,浄土の教学を学び,建暦1(1211)年に帰朝。栄西の請により建仁寺に住し,翌年稲荷の崇福寺に移り,建保6(1218)年洛東の仙遊寺に入って,中興して泉涌寺と改めた。天台,真言,禅,律の兼学道場とし,後鳥羽上皇(→後鳥羽天皇),北条政子北条泰時らの帰依を受けた。『仏法宗旨論』『坐禅事儀』などの著書がある。泉涌寺の『泉涌寺観縁疏』は俊芿の筆跡として著名で,中国の黄山谷をしのばせる堂々とした風格を示す。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「俊芿」の解説

俊芿
しゅんじょう

1166.8.10~1227.閏3.8

鎌倉前期の僧。京都泉涌(せんにゅう)寺の開山。号は我禅房・不可棄。肥後国生れ。18歳で剃髪し,翌1184年(元暦元)大宰府観世音寺で具足戒をうけた。戒律の重要性を痛感して99年(正治元)入宋。径山(きんざん)の蒙庵元総に禅を,四明山の如庵了宏(にょあんりょうこう)に律学を,北峰宗印に天台教学を学び,12年後帰国して北京律(ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され,寺号を泉涌寺と改めて再興の勧進を始めた(このときの勧進帳は国宝)。後鳥羽上皇をはじめ天皇・女院・貴族・武家にも多くの帰依者を得て喜捨を集め,堂舎も整備されて御願寺となり,律・天台・禅・浄土の4宗兼学の道場として栄えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「俊芿」の解説

俊芿 しゅんじょう

1166-1227 鎌倉時代の僧。
永万2年8月10日生まれ。真俊に天台,真言をまなび,のち郷里の肥後(熊本県)に正法寺をひらく。正治(しょうじ)元年(1199)宋(そう)(中国)にわたり,13年間天台・禅・律をまなぶ。帰国後,明庵栄西(みょうあん-えいさい)にむかえられて建仁寺にはいり,京都東山に泉涌(せんにゅう)寺をひらいた。嘉禄(かろく)3年閏(うるう)3月8日死去。62歳。字(あざな)は不可棄。法号は我禅房。諡号(しごう)は大興正法国師,大円覚心照国師,月輪(がちりん)大師。

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旺文社日本史事典 三訂版 「俊芿」の解説

俊芿
しゅんじょう

1166〜1227
鎌倉初期の僧
不可棄と号す。肥後の人。南都・北嶺の学に満足せず,1199年から1211年にかけ,宋に留学。戒律・宋学を学ぶ。帰朝後,洛東の仙遊寺を寄進され,泉涌 (せんにゆう) 寺と改名し開山となる。律宗の再興に努力した。

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367日誕生日大事典 「俊芿」の解説

俊芿 (しゅんじょう)

生年月日:1166年8月10日
平安時代後期;鎌倉時代前期の僧
1227年没

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世界大百科事典(旧版)内の俊芿の言及

【泉涌寺】より

…明治以後,真言宗泉涌寺派の本山となった。当寺ははじめ法輪寺,ついで仙遊寺と称したが,鎌倉時代前期の1218年(建保6),豊前国の武士中原信房が帰依していた俊芿(しゆんじよう)にこの寺を寄進,俊芿は寺号を泉涌寺と改め,律院として伽藍を整備した。有名な俊芿自筆の〈泉涌寺勧縁疏(かんえんしよ)〉(国宝)は,この翌年に造営資金を勧進して書かれたものである。…

【律宗】より

…3宗のうち,相部宗と東塔宗はまもなく衰微し,南山律宗のみが栄えて宋代まで伝えられた。日本の栄叡(ようえい)と普照は相部宗を伝え,辛苦の末に来日した鑑真が南山律宗を伝えたのであり,宋の元照(がんじよう)(1048‐1116)の律解釈は泉涌(せんにゆう)寺の俊芿(しゆんじよう)によって早速に日本にもたらされた。なお,義浄は《根本説一切有部律》を将来し,これこそ最も純正な律であると信じ漢訳したが,律宗にたいした影響は与えなかった。…

※「俊芿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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