平安末から鎌倉初期の戒律厳守の僧。字(あざな)は不可棄(ふかき)、号は我禅房(がぜんぼう)。肥後(ひご)国(熊本県)飽田(あきた)郡に生まれる。生後3日で路傍に捨てられたが、仏縁深く寺僧に育てられ、14歳で真俊(しんしゅん)に天台、真言を学ぶ。27歳より戒律を守って修行に専念、奈良と京都を往復して大小乗の戒律を究めたのち、肥後筒嶽(つつがだけ)(荒尾市)正法寺に蟄居(ちっきょ)、坐禅(ざぜん)持戒して、貴賤(きせん)を教化した。1199年(正治1)渡宋(とそう)、天台山などを経て、径山(きんざん)の蒙庵元聡(もうあんげんそう)(1136―1209)に禅を、四明山(しめいざん)の如庵了宏(にょあんりょうこう)に律を学び、嘉興府(かこうふ)(浙江(せっこう)省)超果教院の北峯宗印(ほくほうそういん)(1149―1214)に8年間天台を学んだ。1211年(建暦1)、律、天台、華厳(けごん)、儒道などの典籍、書画を多数もって帰洛(きらく)した。栄西(えいさい)、貞慶(じょうけい)と交遊。1213年、中原道賢(なかはらどうけん)から東山の仙遊寺(後の泉涌寺(せんにゅうじ))を寄進されて住し、後鳥羽院(ごとばいん)、九条道家(くじょうみちいえ)らと親しんだ。安貞(あんてい)元年、62歳で寂。明治天皇から月輪(がちりん)大師と諡号(しごう)。著書『三千備檢(びけん)』『南山宗旨要抄』などのほか、「清衆規式」「泉涌寺勧進疏(かんじんしょ)」「殿堂房寮色目」などの遺文がある。
[石田充之 2017年7月19日]
『石田充之編『鎌倉仏教成立の研究 俊芿律師』(1972・法蔵館)』
鎌倉前期に戒律復興を実践した学僧。京都泉涌(せんにゆう)寺の開山。号は我禅,字(あざな)は不可棄,のち月輪大師(がちりんだいし)と勅諡(ちよくし)された。肥後国(現,熊本県)の出身。19歳のとき太宰府観世音寺で受戒し,やがて京都,奈良に遊学したが,当時の僧界が末法到来にかこつけて破戒無戒の状態であることに満足できず,1199年(正治1)34歳のとき入宋求法(につそうぐほう)の途についた。宋に留まること13年,天台山,径山(きんざん),四明山等の諸方の名刹に遊学,この間,天台,禅,真言,浄土,悉曇(しつたん),儒学を研鑽,とくに戒律は四明山景福寺の如庵了宏に師事して真要を究めた。帰国のとき請来した典籍は,律宗経書327巻,天台章疏716巻,華厳章疏175巻,儒書256巻,雑書463巻,そのほか合わせて2103巻という実に膨大な量だった。数多くの当時の入宋求法の僧のうち,俊芿の勉学は群を抜く感があった。帰国後の1218年(建保6),中原信房から寄せられた洛東の仙遊寺をもとに,これを中興してここに天台,真言,禅も兼宗する戒律興隆の道場の造営に着手した。すなわち泉涌寺である。彼自筆の有名な《泉涌寺勧縁疏》(国宝)はこのとき堂宇造営の浄財を諸方に求めたもので,堂々たる黄山谷流の書風である。彼に帰依する者は,後鳥羽・順徳両帝,北条政子,北条泰時などの権門から,下は広く庶民に及び,その戒律復興の運動は鎌倉仏教界に大きな衝撃を与えた。後世その戒律を北京律という。
俊芿滅後の1242年(仁治3)に没した四条天皇は,生前から俊芿の生れ変りと世に伝えられ,大葬も泉涌寺で執行され,遺骸は,表面に不可棄法師と刻された俊芿の石造卵塔墓のかたわらに葬られた。この由縁を契機に,幕末まで多くの天皇・女院の陵墓が,泉涌寺の後にある俊芿と四条天皇の廟所に接して営まれた。いわゆる天皇家の月輪(つきのわ)陵である。
執筆者:藤井 学
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1166.8.10~1227.閏3.8
鎌倉前期の僧。京都泉涌(せんにゅう)寺の開山。号は我禅房・不可棄。肥後国生れ。18歳で剃髪し,翌1184年(元暦元)大宰府観世音寺で具足戒をうけた。戒律の重要性を痛感して99年(正治元)入宋。径山(きんざん)の蒙庵元総に禅を,四明山の如庵了宏(にょあんりょうこう)に律学を,北峰宗印に天台教学を学び,12年後帰国して北京律(ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され,寺号を泉涌寺と改めて再興の勧進を始めた(このときの勧進帳は国宝)。後鳥羽上皇をはじめ天皇・女院・貴族・武家にも多くの帰依者を得て喜捨を集め,堂舎も整備されて御願寺となり,律・天台・禅・浄土の4宗兼学の道場として栄えた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…明治以後,真言宗泉涌寺派の本山となった。当寺ははじめ法輪寺,ついで仙遊寺と称したが,鎌倉時代前期の1218年(建保6),豊前国の武士中原信房が帰依していた俊芿(しゆんじよう)にこの寺を寄進,俊芿は寺号を泉涌寺と改め,律院として伽藍を整備した。有名な俊芿自筆の〈泉涌寺勧縁疏(かんえんしよ)〉(国宝)は,この翌年に造営資金を勧進して書かれたものである。…
…3宗のうち,相部宗と東塔宗はまもなく衰微し,南山律宗のみが栄えて宋代まで伝えられた。日本の栄叡(ようえい)と普照は相部宗を伝え,辛苦の末に来日した鑑真が南山律宗を伝えたのであり,宋の元照(がんじよう)(1048‐1116)の律解釈は泉涌(せんにゆう)寺の俊芿(しゆんじよう)によって早速に日本にもたらされた。なお,義浄は《根本説一切有部律》を将来し,これこそ最も純正な律であると信じ漢訳したが,律宗にたいした影響は与えなかった。…
※「俊芿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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