改訂新版 世界大百科事典 「保存科学」の意味・わかりやすい解説
保存科学 (ほぞんかがく)
文化財を保存するために必要な科学,特に自然科学,およびその応用技術。ただし,この言葉の定義はまだ明確に定まっていない。それは,文化財の範囲が必ずしも明らかでないうえ,保存という言葉の意味も広狭いかようにも解されるからである。ここでは以下に述べるように,最も広く解しておくこととする。すなわち,文化財とは,過去における人間の文化活動の所産として今日に残されているものすべてであり,自然遺産であっても人間によって文化的価値が付与されたものも含んでいる。保存科学とは,このような広範囲な文化財について,(1)その価値を発見して文化財であることを認め(同定),(2)その現状を客観的に記録して後世に伝え(記録保存),(3)その現状を維持して変化(劣化)が起こらぬような措置を講じ(狭義の保存),(4)そのため周囲の環境を整えたり改善したりし(環境整備),(5)さらにはそのものの生命をのばしたり価値を高めるためになんらかの手を加える(修復,復元)等のために有効な自然科学とその応用技術,と定義してよかろう。このように考えると,最近用いられるようになった〈文化財科学〉という言葉はほとんど同じ内容となるし,また一部で使われる〈考古科学〉や外国でよく用いられる〈アーキオメトリーarchaeometry〉等とも大きく重複することになる。
まず(1)の文化財同定を行うためには,そのものが,〈いつ〉〈どこで〉〈何〉を用いて〈どのように〉作られたかが問題となるとともに,それが形成された時期の自然環境(古環境)を知る必要がある。このために材料を化学分析し,あるいは機器を用いた観察と測定を行う。しかし文化財からそのための試料を採取することは,まったく不可能か,または困難であるのが常であるので,分析や観察・測定は非破壊によってか,または微量の試料で行わねばならない。このような研究法は必然的にごく一部の結果をもって全体を推しはかることになるので,得られた結果には慎重な総合的判断を加えなければならない。保存科学者に特に経験が求められるゆえんである。
まず文化財が〈いつ〉作られたかを知る年代測定法(年代決定法)として有効なものには数種ある。炭素14法はそのうち最も普遍的なものである。これは昔も今も大気中には一定量だけ存在する(と仮定されている)放射性炭素14を取り入れていた動植物等が,生命を失って文化財の一部となったのち,その量が減衰することを利用して年代を測定しようとする法である。他の年代測定法としては,熱ルミネセンス法(ルミネセンス),フィッショントラック法等がある。ともに土器などいったん熱を受けたものの今日までの時間を測定するものである。木材の年代推定には,年輪年代測定法(年輪年代法)も有力である。次に文化財が〈どこで〉作られたかを探るのは産地推定であって,このためには各種の化学分析が有効である。ガラスはその成分を知ることにより産地も推定できるし,石や土器では,発光分光分析法(分光分析法),蛍光X線分析法,放射化分析法等によって含有されている微量な元素の差で産地を区別できる。また青銅のように鉛を含むものであれば,その同位体比を質量分析計を用いて測定し,鉛の産地を推定することができる。第3の〈何〉を〈どのように〉したかという問いに対しても,各種の化学分析法が利用できる。製作技法の推定にはメスバウアー分光法も有効である。しかしこの目的には,各種顕微鏡での観察や,紫外線,赤外線あるいはX線を照射しての観察,撮影も有効である。
(2)の記録保存には写真と測定が必要である。測定には写真測量法が近年遺跡の記録等に大いに活用されるようになった。かような機械的測定技術はコンピューターの利用によりさらに発展するものと思われる。
(3)にあげた劣化防止のための保存措置と(4)の環境整備とは一体的に考えるべきものであるが,特に前者に重点を置いた措置としては,金属表面の有害な(進行性の)錆の除去,海中より引き上げられた遺物等の脱塩処理,錆化した鉄製品の合成樹脂含浸による固定,水浸木材のPEG(ポリエチレン・グリコール)含浸,凍結真空乾燥等による保存・強化,ことに木簡等墨書木材の保存措置,木製品,紙製品,繊維製品等についての防虫防黴処置等,多くの措置が行われている。また後者すなわち環境の整備としては,大別して展示・保存建物内の文化財のためと,野外の文化財のための二つとなる。展示・保存のための建物,すなわち博物館,美術館,資料館等については,近年空気調和設備が大いに整い,照明も人工照明が主流となった。このため館内の環境すなわち温度,湿度,照度,空気汚染度等は著しく改善された。特にデリケートな文化財に対しては,密閉したケース内の空気を不活性ガスに置き換えたり,あるいはケース内に調湿剤(シリカゲル)を入れて,文化財に最も悪影響を与える湿度の急激な変化を抑制する等,微気象の制御法が開発されている。ただし,文化財は常に劣化が進行しているものであって,劣化を今後完全に停止させることは不可能である。まして展示をすれば必ずなにがしかの劣化が進むことは避けられない。したがって,環境整備には現実的な許容基準を考慮しなければならないが,現在までのところ,許容基準が考えられているのは,照度だけにすぎない。野外の文化財については劣化の抑制は不可能である。むしろ不時の災害,特に日本の場合は火災に対する防災設備の充実が要請される。防災設備としては,自動火災報知設備,避雷設備および消火設備の3者が中心となっている。これら設備の設置基準は,消防法等他の一般的法規に準拠するが,特に文化財の美観を損なわないこと,自衛消防隊等消火に不慣れな人でも取り扱えるものであること等が要請されている。
(5)にあげた修復,復元等については,現代のヨーロッパでは,単に破壊を防ぐ保存にとどめ,それ以上の手は加えるべきでないとの考え方が主流となっている。博物館に保存展示される文化財については,日本もまたほぼ同じ考え方であって,原則として積極的に手を加えることはしない。ただしばらばらに破損した考古資料等を接合し,不足分はセッコウ等他の材料で補うことが古くから行われている。近年は合成樹脂がこのような場合の材料として活用されつつある。これに反し日本の野外の文化財は,木材あるいは軟石であって,自然劣化が著しく,建造物のごときは一定年限ごとに解体,あるいは部分的修理を施さねばならない。このような場合でも,もとの材料をなるべく長く維持するため,合成樹脂の応用が行われている。なお保存科学として開発された技術は,文化財の鑑定にも応用されており,あわせて〈鑑定〉の項を参照されたい。
執筆者:伊藤 延男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報