八代荘(読み)やつしろのしょう

百科事典マイペディア 「八代荘」の意味・わかりやすい解説

八代荘【やつしろのしょう】

甲斐国八代郡にあった荘園。《和名類聚抄》所載の八代郡八代郷の地に成立したとみられる。荘域は不明だが,およそ現山梨県東八代郡八代町(現・笛吹市)北の熊野神社を中心とする地域であろう。久安年間(1145年−1151年)に甲斐守藤原顕遠により立券され,紀伊熊野三山本宮に八講用途として寄進された。その2,3年後には鳥羽院庁下文を得て正式に成立した。開発には甲斐源氏の一族八代氏が関わっていたとする説もあり,逸見清光の子信清は八代余一を称していた。1162年に甲斐守となった藤原忠重は新立荘園の停廃を命じ,目代中原清弘を甲斐国に派遣。清弘は在庁官人三枝守政らとともに当荘に乱入年貢を奪い取り,【ぼう】示(ぼうじ)を抜き取り,神人を搦め取るなどの乱暴を働いた。熊野社からの訴えにより,朝廷は忠重に損物の返還などを命じたが,忠重・清弘・守政はいずれも罪状を否定。この訴訟は,忠重らの罪名勘申を命じられた明法博士中原業倫が,本地垂迹説により熊野権現は伊勢大神宮の祭神と同体であるとし,これを根拠に刑を判定したことから,熊野権現は伊勢大神宮の祭神と同体であるかどうかを論じる《長寛勘文》の勘申に発展した。結果は非同体説が有力となったらしく,忠重は伊予国に配流となっている。この荘園停廃事件契機に古代以来の氏族三枝氏は没落,甲斐源氏八代氏が勢力を伸ばした。八代荘は八代信清ののち小笠原氏に継承されたらしく,1383年には小笠原長基から尼浄契を経て子息長秀に譲られており,甲斐守護小笠原氏相伝の所領となっていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「八代荘」の意味・わかりやすい解説

八代荘 (やつしろのしょう)

甲斐国八代郡(山梨県の旧東八代郡,旧西八代郡)の荘園。久安年中(1145-51)甲斐守藤原顕時が熊野本宮の八講用途として熊野神社に寄進し,鳥羽院庁下文(くだしぶみ)を得て成立する。八代郡のかなりの部分を占めるものと思われるが,荘域は不明。1163年(長寛1)までに安多,長江(現在地不明)がその加納となっている。現地の領主も明らかでないが,甲斐源氏逸見清光の子信清が八代余一を称している点からみて,この八代氏であった可能性がある。1162年(応保2)甲斐守となった藤原忠重は目代中原清弘を遣わし,寛徳(1044-46)以後の新立荘園を停廃させたが,この荘もその一つとして,清弘は在庁官人三枝守政とともに,牓示(ぼうじ)を抜き捨て,年貢を奪い取り,在家(ざいけ)の追捕(ついぶ),神人(じにん)の搦取などの行動に出た。熊野社所司はこれをまったくの非法として朝廷に訴え,訴訟は熊野神社と伊勢神宮とが同体であるか否かを論じた〈長寛勘文〉の勘申にまで発展していく。この事件の背後には,伝統的豪族三枝氏と新興の甲斐源氏八代氏との対立がからんでいたと思われ,八代信清のあとは,小笠原長清の子長光が相続,以後,小笠原氏が伝領したとみられる。1383年(弘和3・永徳3)小笠原長基譲状に〈八代荘知行分〉が見いだされる。1406年(応永13)以降,神護寺領として現れる八代村との関係は不明であるが,おそらくこの荘の一部であろう。
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世界大百科事典(旧版)内の八代荘の言及

【甲斐国】より

…御坂町黒駒付近か)の3駅があった。10世紀以後,甲斐でも各地に貴族や寺社の荘園が立てられ,国衙領を侵食していくが,12世紀の中ごろ,八代(やつしろ)荘をめぐって紀伊熊野神社と国衙との間に激しい衝突があり,裁判の結果国衙側が大敗するという事件も起きた(長寛勘文)。これら荘園や黒駒の伝統をもつ牧場地帯を根拠として甲斐源氏が勃興する。…

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