八阪神社(読み)やさかじんじや

日本歴史地名大系 「八阪神社」の解説

八阪神社
やさかじんじや

[現在地名]奈良市押上町

押上おしあげ町北東部、旧京街道(般若坂越)に西面して鎮座。祇園社ともいう。祭神素戔嗚すさのお尊・奇稲田姫くしいなだひめ神・大己貴おおなむち命・八柱之御子やはしらのみこ神。「東大寺雑集録」によると建武五年(一三三八)六月五日に京都祇園社を勧請、東大寺鎮守八幡宮の末社としたという。永享一一年(一四三九)の東大寺執行所日記(東大寺図書館蔵薬師院文書)に載せる建武五年六月八日の影向の儀の支配状は勧請時の神事に関するもので、神子神人の酒肴を伊賀黒田くろだ荘をはじめ、東大寺領の九ヵ荘が負担している。


八阪神社
やさかじんじや

[現在地名]菟田野町大字稲戸小字鳥居本

稲戸いなど集落西方に鎮座。祭神素盞嗚すさのお命・天照あまてらす皇大神・豊受とようけ大神。旧村社。当社は稲津神社とも称したほか、社蔵の元禄四年(一六九一)の湯釜銘に「牛頭天王」、同一六年の検地帳(吉岡家文書)に「牛頭天王社」、享保五年(一七二〇)の石灯籠には「広田大明神」とみえる。明治初期に現社名に改め、明治一〇年(一八七七)広田ひろた大神・稲生いなり大神・だけ大神を合祀したという。慶応二年(一八六六)の棟札に崇神天皇六年に瀛津足あきつたらし命が神鏡を、国振立くにのふるたち命が神剣を造り、文武天皇の時代に刀工天国が当地の霊水によって刀剣を造ったとある。「神皇正統記」崇神天皇条には「即位六年己丑年。


八阪神社
やさかじんじや

[現在地名]宝塚市平井二丁目

親保しんぽ山の南麓、かつての平井ひらい村集落の北端に位置する。平井地区の産土神。祭神は素盞嗚命・白山姫命、旧村社。文政七年(一八二四)の平井村明細帳(乾家文書)によると牛頭天王社と号し、満願まんがん(現川西市)によって源満仲の時代に勧請されたと伝えるが、「摂陽群談」は宝徳元年(一四四九)の勧請とする。宮座は二五人を上限に上座の八人が神主衆となって月回りで牛頭天王社に神酒を供えた(寛保三年「立会評定覚」乾家文書)。神主衆は田畑を質に低利融資も行い宮銀とよばれた(「宮入用帳」同文書)。明治二年(一八六九)八坂神社と改称。末社に天照皇太神宮・春日大明神・八幡皇太神・住吉大神宮・琴平神・稲荷大明神があった(同三年「鎮座社地書上帳」同文書)


八阪神社
やさかじんじや

[現在地名]東成区中道四丁目

中道なかみち村の鎮守で、祭神は素盞嗚尊・菊理姫命。旧村社。縁起によれば旧地は中道の字法性寺ほうしようじ(通称二俣)で、寛仁元年(一〇一七)関白藤原道長が同地に別邸を設けた際、守護神として牛頭天王・白山権現を勧請したのに始まるという。仁安元年(一一六六)社殿再興、文保二年(一三一八)には本殿拝殿を改修し、天正一二年(一五八四)に現在地に移転したと伝える。もと牛頭天王白山権現と称し、文禄三年(一五九四)・慶長一四年(一六〇九)・延宝七年(一六七九)の各検地帳に「牛頭天王」とみえ、境内九畝一八歩が除地とされていた(東成郡誌)


八阪神社
やさかじんじや

[現在地名]奈良市大保町小字快木山

尾羽根おばね集落の北の小字快木山かいきざんにある。祭神素盞嗚すさのお命・八幡大神・春日大神。旧村社。正治年間(一一九九―一二〇一)以前の創祀と伝える。本殿(県指定文化財)は一間社流造・厚板段葺で、寛永二年(一六二五)再建の墨書銘があり、桃山期の様式を残す。弘治三年(一五五七)の鰐口に「奉寄進栖山宮鰐口普門院敬白」と記され、境内に文久(一八六一―六四)頃まで快挙山円鏡えんきよう寺があったという。


八阪神社
やさかじんじや

[現在地名]上北山村大字河合小字向

河合かわい集落の東方、北山川の対岸に鎮座。主祭神は健速須佐之男尊・稲田比売命・八柱御子之神、大平宗助之霊および倉稲魂命・大山祇命を配祀する。河合区の産土神で旧村社。小字西山にしやまは標高八〇〇メートルの高所で大峯修験の峰筋に近く、川合(河合)の母村であり、かつては修験者らの定住した集落である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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