平安後期・中世の歌道家。北家藤原氏の総継(ふさつぐ)の流れをくむ藤原顕季(あきすえ)は京都六条烏丸に住んで六条修理大夫と呼ばれ,その家系を六条家という。顕季は歌才もあり歌壇で重んじられ,1118年(元永1)に源俊頼(としより),藤原顕仲(あきなか)らを招き人丸影供(ひとまるえいぐ)を催している。これは柿本人麻呂影供和歌会の創始となった。その子の顕輔(あきすけ)は《詞花和歌集》を選集しており,後を継いだ清輔(きよすけ)および養子の顕昭(けんしよう)は大いに学才を示して御子左(みこひだり)家の俊成と対抗して,歌の家としての六条家の地歩を築いた。一族からは《千五百番歌合》の判者の季経,《新古今和歌集》の選者の有家,《蓮性(れんしよう)陳状》の知家,《続古今和歌集》の選者の行家らを出したが,歌の家としては行家をもって絶えた。御子左家と対抗して歌道を練磨し,訓詁(くんこ)考証などの歌学に業績を残した。
執筆者:新井 栄蔵
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中古・中世の歌道師範家。源経信(みなもとのつねのぶ)・俊頼(としより)の六条源家(げんけ)と区別するため六条藤家(とうけ)ともよぶ。白河院(しらかわいん)の寵臣(ちょうしん)であった藤原氏末茂(すえしげ)流の顕季(あきすえ)を祖とし、その邸宅が六条東洞院(ひがしのとういん)に、その子顕輔(あきすけ)の邸宅が六条大宮にあったための呼称である。『詞花集(しかしゅう)』を撰(えら)んだ顕輔と、『奥義抄(おうぎしょう)』『袋草紙(ふくろぞうし)』等を著したその子清輔(きよすけ)の時代が全盛期で、しだいに御子左(みこひだり)家に圧倒され、顕輔の猶子(ゆうし)顕昭(けんしょう)死後は勢力を失った。鎌倉時代に入ると、『続古今集』撰者(せんじゃ)の一人で、反御子左の立場をとった行家(ゆきいえ)などの歌人を生み、ある程度の権威を保ったが、しだいに衰え、南北朝期に断絶した。
[川上新一郎]
『井上宗雄著『平安後期歌人伝の研究』(1978・笠間書院)』▽『『谷山茂著作集4 新古今時代の歌合と歌壇』(1983・角川書店)』
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…すなわち賢子の兄雅実は太政大臣に昇り,後に家祖と仰がれたが,京都の南郊久我(古我・木賀ともあり)に邸宅を有し〈久我太政大臣〉と称されたのが家名の由来である。鎌倉時代初期に権勢を得た通親の男通具が堀河家を,定通が土御門(つちみかど)家を,通方が中院(なかのいん)家を,孫通有が六条家を興した。さらに江戸時代に入り晴通の孫具起が岩倉家を,有能が千種家を,通堅の孫通廉が東久世家を,また敦通の男通式が久世家を,孫季通が梅渓家を興し,千種有能の男雅永が植松家を興すなど,庶流の家も多い。…
※「六条家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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