前原村(読み)まえばるむら

日本歴史地名大系 「前原村」の解説

前原村
まえばるむら

[現在地名]前原市前原・前原中央まえばるちゆうおう一―三丁目・前原駅南まえばるえきみなみ一―三丁目・前原北まえばるきた一―四丁目・前原東まえばるひがし一―三丁目・前原西まえばるにし一―五丁目・前原南まえばるみなみ一―二丁目・南風台みなかぜだい一―二丁目

志摩しま郡中央部南端、怡土いと郡との境に位置する。中央部を唐津街道が東西に通り、前原町は宿駅として栄えた。村域北端をいずみ(雷山川)が西流し、東は浦志うらし村、西は荻浦おぎのうら村。年月日未詳の某申状案(由比文書/西国武士団関係史料集一四)は社米田に対する段銭の免除を求めたもので、「前原・荻浦」の土貢をもって社米を捻出したが、現在は荻浦を社米田としているとある。ささ山は山城跡で、じよう茶臼山ちやうすやまとも称し、「続風土記附録」は「舞嶽古城」として波多江上総の居城と伝える。天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)によれば田一八町三段余・畠二〇町三段余。小早川時代の指出前之帳では田一九町八反余(分米二七一石余)・畠二一町四反余(分大豆八七石余)。慶長三年(一五九八)分の志摩郡物成帳(朱雀家文書)では高三五九石余、物成一八八石余(うち大豆七四石余)、うち定物成一三〇石・免除分五八石余。同七年の検地高六六九石余(慶長石高帳)。福岡藩領。元禄五年(一六九二)の高七四七石余、うち畠二九三石余(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高六九九石余。元禄元年の新田高四八石余・四町八反余(「志摩郡御床触郡帳」鎌田家文書)。享保二年(一七一七)の村位は下々、田三四町一反余・畠四三町七反余。


前原村
まえばるむら

[現在地名]岱明町下前原しもまえばる

友田ともだ川が東部から南部に流れ、北端を三池みいけ往還が通り、東と南は野口のぐち村、北は築地ついじ(現玉名市)に接する。弘治三年(一五五七)三月吉日の紀宗善大野家由緒書上(清源寺文書)に、鎌倉初期に紀国隆が玉名郡内で二五〇町を得、築地二郎と称した次男国秀に譲った築地五五町の説明に「前原、野口、高道ハ築地之内ニ候歟」と記す。同年三月二五日に大友氏から志賀親度に預けられたうちに「玉名郡之内前原九町」があり、亀甲かめのこう・下築地(現玉名市)など隣村が含まれることから、この前原は当村と推定される。なお「国誌」所引の中村家伝には築地国秀は前原に居住したという。


前原村
まえばらむら

[現在地名]楢葉町前原

木戸きど川河口に位置し、南は山田浜やまだはま村。川・海付きの山林の少ない平坦地にあり、集落の中心は浜城はまじようで、宿田しゆくだ田中内たなかうち岡崎おかざきに散在する。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高二七八石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高六三七石余。正保郷帳では田方四三九石余・畑方一九八石余。


前原村
まえばらむら

[現在地名]大東町前原

養賀ようか村の東、あか川と支流幡屋はたや川の合流点付近に位置する。南は赤川を境に立原たちばら(現加茂町)、西は近松ちかまつ(現同上)。「出雲国風土記」の大原郡にみえる「往古之時、此の処に郡家ありき」とある旧大原郡家は当地の上土居かみどい辺りにあったという説がある。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高二四四石余、寛文四年(一六六四)の本田高二二二石余・新田高二〇石余。「雲陽大数録」では高一六〇石。「郡村誌」によると戸数四一(うち社一・寺一)・人数一六七、民業は農業二四戸・工業四戸・商業二戸・雑業八戸、物産は生茶四〇貫目・生人参四五貫目・木綿二〇〇反。


前原村
まえばるむら

[現在地名]菊水町前原

西境を菊池川が南流し、東は原口はるぐち村、北は竈門かまど村、南は藤田ふじた村と接する。観応三年(一三五二)一二月日の伊東氏祐軍忠状(伊東家古文状)に記す「前原」、至徳元年(一三八四)九月日の安富了心直安軍忠状(深江文書)にみえる「前原」は、菊池氏を攻める際に志々岐しじき(現山鹿市)板井いたい(現菊池郡七城町)などとともに在陣した地であり、ともに菊池川中流域であることから当地と思われる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田九町七反一畝余・畠屋敷一四町四反余・屋敷筆数四五、分米一八九石三斗。


前原村
まえはらむら

[現在地名]藤岡町西前原にしまえはら

部屋へや村の西にあり、西は赤麻あかま沼、南はあぶみ新田村。古くは開発者の名をとって惣十郎そうじゆうろう新田と称した。慶安郷帳に惣十郎新田とみえ、田五九石余・畑二五石余、板倉重形領。寛文四年(一六六四)の重形宛の領知目録に前原村とみえる。元禄郷帳では下総古河藩領。天保(一八三〇―四四)頃の古河藩領村明細帳(茨城県潮田文書)によれば、高八七石余、田八町七反余・畑七町余。根取高米二四石余・永一貫九一二文、夫永六八五文・糠藁永・大豆三斗余を納める。家数四、男二九・女二六、農間に男は薪等を売り、女は木綿等を少々織る。


前原村
まえばらむら

[現在地名]小松島市前原町

江田えだ村の南、中郷なかのごう村の西に位置し、西部を勝浦かつうら川が北流する。村内を土佐街道が通る。近世は勝浦郡のうちで、慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「前原」とみえる。慶長一九年前原村の次郎大夫が年貢の未進があるため田地一反余を売渡している(「田地売渡状」徴古雑抄)。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「前原村」と記され、正保国絵図では高四八八石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方三七六石余・畠方一一一石余。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高一一〇石余。寛永三年に新田高五一石余が打出されたほか、享保五年(一七二〇)に改出高三五石余、宝暦一〇年(一七六〇)に新田高三四石余であったという(天保五年「阿波国淡路国内郷村高帳」蜂須賀家文書)


前原村
まえはらむら

[現在地名]石橋町東前原ひがしまえはら

中大領なかだいりよう村の南方に位置し、東は下石橋しもいしばし村。近隣では最も古くから開けた地といわれ、東征に赴く源義家が当地を通ったと伝える。慶安郷帳に村名がみえ、田三九石余・畑一〇石余で宇都宮藩領。寛文四年(一六六四)の同藩領知目録に村名が記される。元禄郷帳では高八五石余で幕府領。天保郷帳では高一一〇石余になっている。改革組合村では幕府領と旗本曲直瀬領の相給で、家数二。旧高旧領取調帳では幕府領とある。元禄四年(一六九一)の納米江戸廻送手形(伊沢新右衛門文書)に米三〇俵とあり、同九年の石橋宿助郷帳(伊沢吉則文書)では勤高八三石になっている。


前原村
まえはるむら

[現在地名]北部町改寄あらき 前原

飽田あきた郡の最北端の植木うえき台地にあり、北は山本やまもと郡正院手永の草葉くさば(現鹿本郡植木町)、東は立石たていし村、西と南は尾当おと村に接する。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳は、津留つる井上いのうえ・立石の三村とともに連名で記される。


前原村
まえばらむら

[現在地名]高山市前原町

北東に流れる川上かわかみ川左岸にあり、三枝さいぐさ郷では最上流域に位置する村。上流側は同川に流れ込む前原谷を隔てて八日町ようかまち村。名主は下流側北隣の赤保木あかほき村名主が兼帯した(天明八年村明細帳)。同村の新田として開拓されたという。赤保木村とを結ぶ道は川上川沿いの道以外に村の後方見量みはか山の裾をぬって通ずる道が今もあり、かつては頻繁に使われたという。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳の三枝郷に村名がみえ、高三五石。


前原村
まえはらむら

[現在地名]羽生市今泉いまいずみ

今泉村の南に連なる。古くは二十一人方村と称し今泉村の枝郷であった(風土記稿)。田園簿によると田高一三二石余・畑高一一九石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本七家の相給。享保一七年(一七三二)からと考えられるが一部が下野足利藩領となり、宝暦五年(一七五五)の同藩領村々明細帳(安田家文書)には前原村とみえる。同帳によると承応三年(一六五四)幕府領代官による検地があった。宝暦五年の高二二七石余、反別は田方一四町一反余・畑屋敷二一町三反余。


前原村
まえばらむら

[現在地名]小川町飯前いいさき

ともえ川の右岸に位置し、西南は飯岡いいおか村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「前原村」とみえる。「新編常陸国誌」には「天保中飯岡村ト合テ、飯前村ト称シ」とある。「水府志料」は戸数およそ一四とし、「たまよばひ 此辺の風俗、急病にて死する人あれば、屋上に升り、其人の名を大によぶ事あり。


前原村
まえばるむら

[現在地名]植木町とどろき

小吉松こよしまつ村の南、東は下滴水しもたりみず村、西は那知なち村に接する。もとは小吉松村のうちで、元禄郷帳に記載はなく享保年間(一七一六―三六)の宣紀時代手鑑に村名がみえるので、この間に分村したと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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