幕末・明治の金工家。幼名は治三郎。文政(ぶんせい)11年4月14日、京都の伏見(ふしみ)家に生まれ、5歳で刀剣商加納治助(じすけ)の養子となる。初め奥村庄八(しょうはち)に、ついで1840年(天保11)大月派の金工池田孝寿(たかとし)の門に入り、装剣金具の製作を学び、絵を円山(まるやま)派の中島来章(らいしょう)に習った。46年(弘化3)京都で金工を開業、初め寿朗(としあき)と名のり、のちに夏雄と改め、54年(安政1)江戸に出た。刀装金具の製作はこのころから明治の初めまでで、多くの優品をつくり、名声が高く、69年(明治2)明治政府の新貨幣製作にあたり、大阪造幣寮に出仕してその原型製作に従事した。77年東京に戻ったが、廃刀令後のため刀装金具の需要はなく、根付(ねつけ)、香合(こうごう)、額、飾り金具などの製作に活路をみいだした。81年に第2回内国勧業博覧会出品の『鯉魚図額(りぎょのずがく)』、90年に第3回内国勧業博覧会出品の『百鶴図花瓶(ひゃっかくのずかびん)』がいずれも妙技一等賞を受賞、90年に帝室技芸員、東京美術学校教授に任ぜられた。明治31年2月3日没。その作風は写生画を軽妙洒脱(しゃだつ)に金属面に表したもので、気品の高い作品を多く残している。とくに片切彫りを得意としており、その代表作に『月雁図額(つきにかりのずがく)』(東京国立博物館)がある。
[原田一敏]
(加島勝)
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彫金家。京都に生まれ,旧姓は伏見氏。7歳で刀剣商加納治助の養子となり,通称治三郎,寿朗と号す。金工奥村庄八に彫金技術を学び,1840年(天保11)大月派の金工池田孝寿の門に入った。また絵を円山派の中島来章,漢籍を森田節斎に学ぶ。46年(弘化3)京都で金工を開業,このころ夏雄を名のり,54年(安政1)江戸に移る。69年(明治2)新政府により新貨幣の意匠・試鋳,極印の製造を命ぜられ,72年造幣寮に出仕。90年東京美術学校彫金科教授,同年帝室技芸員。下絵を上手にかき,人物,花鳥などにみる写実的で精密な作風により,伝統金工を今に伝えた名工といわれ,とくに片切彫にすぐれていた。代表作に《月雁図額》(東京国立博物館),《百鶴図花瓶》《鯉魚図額》などがある。
執筆者:香取 忠彦
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…〈片刀彫(かたきりぼり)〉は,文様の輪郭線を彫る際に切口の片側を斜めに彫っていく,絵画の付立(つけたて)画法の筆意をそのまま彫り込む技法。江戸時代に横谷宗珉(よこやそうみん)によって始められ,幕末・明治に活躍した加納夏雄は名手といわれる。 〈透彫〉は,器物に文様や地文を切り透かす技法。…
…幕末には後藤家の掉尾を飾る一乗(1791‐1876)が,原則として鐔を製作しなかった後藤家一門にあって鐔の製作に乗り出し,格調ある作風を展開した。また加納夏雄は対象を写生画風に鉄鐔に表現して独自の作風を樹立した。1876年(明治9)の廃刀令後は鐔は無用となったが,輸出品として製作された。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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