奈良~平安時代の僧。〈きんそう〉とも読み,石淵(いわぶち)僧正ともいう。生年には754年(天平勝宝6)説もある。空海の師と伝える。俗姓秦氏,母は島史(しまのふひと)。12歳で大安寺僧信霊について出家,770年(宝亀1)宮中および興福寺の千人得度にあずかり,20歳で受戒の後,善議について三論宗を学ぶ。たゆまざる修行を積み,813年(弘仁4)律師に任ぜられ,大極殿にて最勝王経を講じ,紫宸殿にて諸宗の学僧と論義し,法相宗を破る。819年少僧都(しようそうず)となり,造東寺の別当を兼ね,ついで826年(天長3)大僧都に昇り,造西寺別当に転じ,翌年西寺の北院で入滅。70歳(一説に74歳)。僧正を贈られる。高雄山寺において,802年(延暦21)最澄の《法華玄義》等の講筵に加わり,816年(弘仁7)空海より密教の三昧耶(さんまや)戒を受けるなど,最澄・空海とも道交があった。
執筆者:中井 真孝
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「きんそう」ともいう。平安初期の三論宗の僧。石淵僧正(いわぶちのそうじょう)とよばれる。俗姓は秦(はた)氏。大和(やまと)国(奈良県)高市(たけち)郡の人。12歳で大安寺の信霊(しんれい)に師事し、20歳で受戒、以後大安寺の善議(ぜんぎ)(729―812)に三論を学ぶ。796年(延暦15)石淵八講を創始し、813年(弘仁4)正月、伝燈大法師(でんとうだいほうし)位で律師に任命された。宮中にて『最勝王経(さいしょうおうきょう)』を講じ、東大寺、西寺(さいじ)の別当を兼ね、826年(天長3)大僧都(だいそうず)に任命され、翌827年5月7日西寺北院にて入寂した。勅により僧正を贈られた。一説には、空海に求聞持法(ぐもんじほう)の行法を授けたという。高野山(こうやさん)普門院に平安後期の画像がある。
[伊藤隆寿 2017年7月19日]
(鷺森浩幸)
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…奈良~平安時代の僧。〈きんそう〉とも読み,石淵(いわぶち)僧正ともいう。生年には754年(天平勝宝6)説もある。空海の師と伝える。俗姓秦氏,母は島史(しまのふひと)。12歳で大安寺僧信霊について出家,770年(宝亀1)宮中および興福寺の千人得度にあずかり,20歳で受戒の後,善議について三論宗を学ぶ。たゆまざる修行を積み,813年(弘仁4)律師に任ぜられ,大極殿にて最勝王経を講じ,紫宸殿にて諸宗の学僧と論義し,法相宗を破る。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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