百科事典マイペディア 「南部荘」の意味・わかりやすい解説
南部荘【みなべのしょう】
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紀伊国日高郡(現,和歌山県日高郡みなべ町)の荘園。荘名の初見は《中右記》天仁2年(1109)10月21日条で,〈南陪荘〉と記す。成立事情はつまびらかでないが,後三条天皇の皇孫伏見宮守子内親王から鳥羽院皇女五辻宮(いつつじのみや)頌子内親王に伝領された。1175年(安元1)頌子内親王が鳥羽院の菩提を弔うために高野山に蓮華乗院を建立し,荘内の山内村水田10町を寄進し,領家職(りようけしき)の一部が高野山に移った。源平内乱期には一時衰退したが,94年(建久5)ごろ水田10町の領有が所当米(しよとうまい)100石にきりかえられ,1208年(承元2)頌子内親王の没後,当荘の全域が蓮華乗院領になったと推定される。当荘は伏見宮の領有時代から田辺の熊野別当家の請所(うけしよ)となっており,当初300石で請け負われていたが,湛快(たんかい)の子の湛増・湛政兄弟が下司職(げししき)を争い,500石に増額することを条件に湛増が下司になっている。500石のうち,所当米は300石で,200石は色代(しきだい)といわれており,色代は鎌倉後期になると代銭納化された。下司の小松法印快実が承久の乱(1221)で上皇方に味方して没落した後,守護佐原家連(いえつら),ついで光連が地頭職に補任(ぶにん)された。その後宝治合戦(1247)で佐原氏が没落した際,高野山は地頭職の停廃を企てたが認められず,鎌倉期を通じて地頭が存続している。1393年(明徳4)守護大内義弘の裁許によって下地中分(したじちゆうぶん)が行われたが,在地武士による押領を防止できず,1441年(嘉吉1)には高野山の収納分はわずか30石にまで後退した。
執筆者:小山 靖憲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
紀伊(きい)国日高(ひだか)郡にあった高野山(こうやさん)蓮華乗院(れんげじょういん)領の荘園。現在の和歌山県日高郡みなべ町の地域にあたる。当初鳥羽院(とばいん)皇女五辻宮(いつつじのみや)頌子内親王(前斎院(さきのさいいん))の領であったが、内親王没後の1194年(建久5)に全荘が蓮華乗院に寄進され、年貢は下司(げし)の請負で現米300石、色代200石が納入されることとなった。承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、紀伊国守護佐原家連(さはらいえつら)がこの荘の地頭となり、地頭請所(うけしょ)荘園となった。年貢は梶取(後の船頭にあたる)によって紀伊湊(みなと)(和歌山市)に運ばれ、荘内には市(いち)も開かれて年貢の銭納も行われた。宝治(ほうじ)合戦(1247)後地頭は交替したが、年貢の未進が続き、1394年(応永1)に、守護大内氏の給人(きゅうにん)と荘内下地(したじ)は折半されることとなった。室町時代には守護畠山(はたけやま)氏による守護請が行われたが、納入年貢は減少の一途をたどった。
[佐々木銀弥]
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