南部荘(読み)みなべのしょう

百科事典マイペディア 「南部荘」の意味・わかりやすい解説

南部荘【みなべのしょう】

紀伊国日高郡の南部川下流域,現和歌山県みなべ町一帯に所在した荘園。成立事情は不明だが,1109年の史料に〈南陪庄〉と初見。領家職は伏見宮守子内親王から五辻宮頌子内親王に伝えられたが,1175年頌子内親王は父鳥羽院菩提(ぼだい)を弔(とむら)うため高野(こうや)山に蓮華乗院を建立,その仏餉灯油人供の料所として荘内山内村の水田10町を寄進したため,領家職の一部は蓮華乗院に移った。1194年水田10町の領有が所当米100石の寄進に切り替えられるとともに,頌子内親王没後は全面的に寺家(蓮華乗院)の進仕(しんし)とすることが定められた。したがって1208年に内親王が没したあとは,荘全体が蓮華乗院領となったものとみられる。下司(げし)職には守子内親王領の時代から熊野別当家が補任(ぶにん)されており,湛快を初見としてその子湛増,さらにその子湛勝王法橋,湛盛播磨別当,快実小松法印へと受け継がれた。なお領家に対する請料は湛快の代には300石であったが,湛増が引き継ぐに際して兄弟の湛政との間に争いがあり,200石の増額を受け入れた湛増が補任されるという経緯があった。快実小松法印は承久の乱に際して後鳥羽院に荷担して処刑され,下司職は没収されたが,蓮華乗院の領有には変化はなく,下司に代わって紀伊国守護佐原家連が地頭に補任された。家連のあとその子光連が引き継ぐが,光連は1247年の宝治合戦で三浦方について討死し,地頭職は没収された。これを機に蓮華乗院は,家連・光連に不法のあったことを理由に地頭の停止を願い出たが認められず,以後も地頭は存続,蓮華乗院と地頭の間でさまざまな紛争が長く続いた。1393年守護大内義弘裁許によって下地中分が行われたが,その後も在地武士による侵略が続き,1441年には蓮華乗院の収納はわずか30石にまで減少している。

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改訂新版 世界大百科事典 「南部荘」の意味・わかりやすい解説

南部荘 (みなべのしょう)

紀伊国日高郡(現,和歌山県日高郡みなべ町)の荘園。荘名の初見は《中右記》天仁2年(1109)10月21日条で,〈南陪荘〉と記す。成立事情はつまびらかでないが,後三条天皇の皇孫伏見宮守子内親王から鳥羽院皇女五辻宮(いつつじのみや)頌子内親王に伝領された。1175年(安元1)頌子内親王が鳥羽院の菩提を弔うために高野山に蓮華乗院を建立し,荘内の山内村水田10町を寄進し,領家職(りようけしき)の一部が高野山に移った。源平内乱期には一時衰退したが,94年(建久5)ごろ水田10町の領有が所当米(しよとうまい)100石にきりかえられ,1208年(承元2)頌子内親王の没後,当荘の全域が蓮華乗院領になったと推定される。当荘は伏見宮の領有時代から田辺の熊野別当家の請所(うけしよ)となっており,当初300石で請け負われていたが,湛快(たんかい)の子の湛増・湛政兄弟が下司職(げししき)を争い,500石に増額することを条件に湛増が下司になっている。500石のうち,所当米は300石で,200石は色代(しきだい)といわれており,色代は鎌倉後期になると代銭納化された。下司の小松法印快実が承久の乱(1221)で上皇方に味方して没落した後,守護佐原家連(いえつら),ついで光連が地頭職に補任(ぶにん)された。その後宝治合戦(1247)で佐原氏が没落した際,高野山は地頭職の停廃を企てたが認められず,鎌倉期を通じて地頭が存続している。1393年(明徳4)守護大内義弘の裁許によって下地中分(したじちゆうぶん)が行われたが,在地武士による押領を防止できず,1441年(嘉吉1)には高野山の収納分はわずか30石にまで後退した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「南部荘」の意味・わかりやすい解説

南部荘
みなべのしょう

紀伊(きい)国日高(ひだか)郡にあった高野山(こうやさん)蓮華乗院(れんげじょういん)領の荘園。現在の和歌山県日高郡みなべ町の地域にあたる。当初鳥羽院(とばいん)皇女五辻宮(いつつじのみや)頌子内親王(前斎院(さきのさいいん))の領であったが、内親王没後の1194年(建久5)に全荘が蓮華乗院に寄進され、年貢は下司(げし)の請負で現米300石、色代200石が納入されることとなった。承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、紀伊国守護佐原家連(さはらいえつら)がこの荘の地頭となり、地頭請所(うけしょ)荘園となった。年貢は梶取(後の船頭にあたる)によって紀伊湊(みなと)(和歌山市)に運ばれ、荘内には市(いち)も開かれて年貢の銭納も行われた。宝治(ほうじ)合戦(1247)後地頭は交替したが、年貢の未進が続き、1394年(応永1)に、守護大内氏の給人(きゅうにん)と荘内下地(したじ)は折半されることとなった。室町時代には守護畠山(はたけやま)氏による守護請が行われたが、納入年貢は減少の一途をたどった。

[佐々木銀弥]

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