日本大百科全書(ニッポニカ) 「噺本」の意味・わかりやすい解説
噺本
はなしぼん
江戸時代の文学ジャンルの一つ。短い笑話を集めたもので、噺(はなし)の本の意味である。江戸時代を通して行われ、約1000点の作品が出版されたが、1772年(安永1)ごろの文運東漸期を境に、前期は上方(かみがた)を中心に、後期は江戸を中心に行われた。前期では『戯言養気集(ぎげんようきしゅう)』『きのふはけふのものがたり』『醒睡笑(せいすいしょう)』などがごく初期のものであり、これらは御伽衆(おとぎしゅう)や説教僧の手によって集められた笑話であり、実在人物の機知に富んだ逸話も多くあった。これが1679、80年(延宝7、8)ごろには特殊な軽口(かるくち)本の形式が確立する。「……と云(い)うた」形式をとり、固有名詞や教訓性をいっさい捨て去った一般的笑話であり、創作笑話であった。元禄(げんろく)(1688~1704)ごろには京に露の五郎兵衛、江戸に鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)、大坂に米沢彦八らの職業的咄家(はなしか)が登場して座敷咄(ざしきばなし)や辻咄(つじばなし)を行う一方、『露がはなし』『鹿の巻筆』その他の咄家の噺本も出版された。これらの軽口本は明和(めいわ)(1764~72)末年まで京坂を中心に行われたが、1772年(明和9)の『鹿子餅(かのこもち)』の刊行を境に『楽牽頭(がくたいこ)』『聞上手(ききじょうず)』以下の江戸小咄本が爆発的盛行をみせる。これは、軽口本の咄より短く、会話体で言い切る歯切れのよい、機知に富んだ小咄であった。この江戸小咄の盛行は安永(あんえい)期(1772~81)だけで、天明(てんめい)(1781~89)以降は衰退の一途をたどり、先行作の嗣足(つぎたし)改題本や、黄表紙仕立(きびょうしじたて)本の改作ものが大半を占めるようになる。そのような状況のなかで、烏亭焉馬(うていえんば)の咄の会や、幇間(ほうかん)の桜川慈悲成(じひなり)のお座敷咄が行われ、やがて三笑亭可楽(さんしょうていからく)が三題咄によって登場し、文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~30)には寄席(よせ)が盛行を極め、文政末には125軒もの寄席が数えられるまでになる。さらに石井宗叔(そうしゅく)によって長咄が始められ、現行落語の原形が整えられ、咄は読む小咄から聞く落語へと変貌(へんぼう)していった。この口演落語盛行期の噺本は、安永期の小咄に比べて何倍もの冗長な行文を費やし、江戸小咄の軽妙さを失い、衰退の一途をたどった。
[岡 雅彦]
『武藤禎夫編『江戸小咄辞典』(1965・東京堂出版)』