米沢彦八(読み)ヨネザワヒコハチ

デジタル大辞泉 「米沢彦八」の意味・読み・例文・類語

よねざわ‐ひこはち〔よねざは‐〕【米沢彦八】

落語家
初世)[?~1714]上方落語の祖。大坂生玉いくたま神社境内で興行した仕方物真似人気を博す。著作に「軽口御前男」「軽口大矢数」など。
(2世) 京都の落語家。祇園境内などで演じ、物真似芸にすぐれた。著作に「軽口福おかし」など。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「米沢彦八」の意味・読み・例文・類語

よねざわ‐ひこはち【米沢彦八】

  1. 江戸中期の落語家。初世。上方落語の祖。元祿(一六八八‐一七〇四)末年から正徳年間(一七一一‐一六)に、大坂生玉神社境内などで、一人一二文の金をとって「俄大名」など軽口ばなしを演じ人気を得た。咄本「軽口御前男」がある。正徳四年(一七一四)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「米沢彦八」の意味・わかりやすい解説

米沢彦八 (よねざわひこはち)

噺家。(1)初代(?-1714(正徳4)) 元禄時代に大坂の生玉で軽口(かるくち)咄を演じて知られる。〈しかた物真似〉の名人でもあり,声色身振り模写世相風俗の物真似を演じた。咄本として《軽口御前男》《軽口大矢数》を残した。大坂落語の祖といわれる。正徳4年6月3日に旅先の名古屋で急死。(2)2代(?-1767(明和4)) 大坂の彦八の没後,京都にあらわれ,享保から明和にかけて約40年間活躍した。落し噺の名人として名声を博す。本居宣長が宝暦6年(1756)の1月24日と7月7日に京都で2代目彦八の噺をおもしろく聴いたことをみずからの《在京日記》に書き記している。
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朝日日本歴史人物事典 「米沢彦八」の解説

米沢彦八(初代)

没年:正徳4.6.3(1714.7.14)
生年:生年不詳
元禄期(1688~1704)の大坂で活躍した落語家。豊笑堂。京都で辻噺を創始した露の五郎兵衛にやや遅れて活躍。大坂落語の祖といわれる。生玉神社に小屋を構え,当世仕方物真似の看板の下に落噺や役者・世相の物真似を得意とした。ありあわせの道具で扮装した俄大名がことに名高く,のちの「俄」という芸能に通じる演技であった。彼の咄は『軽口御前男』などにまとめられ,先行笑話に頼らず,落ちに重点を置いた新鮮な咄が多い。名古屋の興行師に招かれ同地で客死。近松門左衛門作「曾根崎心中」で,遊女お初を連れ出した田舎客が見にいったことになっているのも,彦八の物真似であった。<参考文献>肥田晧三「大阪落語」(『日本の古典芸能9/寄席』)

(荻田清)


米沢彦八(2代)

没年:明和5頃(1768)
生年:生年不詳
江戸中期の京都の落語家。享保7(1722)年ごろから,四条河原,祇園など人の集まる場所で,滋味あふれる語り口の落咄を演じ,のちには動きのある物真似,声色なども得意とし,小坊主を相手に音曲を交えた江戸万歳をも演じた。その名声は大坂にも聞こえた。弟子も多数抱えており,そのなかから3代・4代目彦八を生み出す。『軽口福おかし』などの咄本に彼の咄を窺うことができる。本居宣長も在京中,彦八の咄に親しんだ。<参考文献>肥田晧三「大阪落語」(『日本の古典芸能9/寄席』)

(荻田清)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「米沢彦八」の解説

米沢彦八(初代) よねざわ-ひこはち

?-1714 江戸時代前期-中期の落語家。
元禄(げんろく)ごろから大坂の生玉(いくたま)神社の境内で辻噺(つじばなし)を興行して評判をとる。当世風俗や役者の物真似を得意とし,上方落語界の中心として活躍した。正徳(しょうとく)4年6月3日死去。著作に噺本(はなしぼん)「軽口御前男」など。

米沢彦八(2代) よねざわ-ひこはち

?-? 江戸時代中期の落語家。
初代の没後名をつぎ,享保(きょうほう)-明和(1716-72)のころ京都祇園(ぎおん)を中心に活躍した。物真似芸にすぐれ,音曲の要素をもつ江戸万歳なども演じた。著作に噺本(はなしぼん)「軽口耳過宝」など。

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世界大百科事典(旧版)内の米沢彦八の言及

【寄席】より


[大阪の寄席]
 大坂の寄席は,江戸よりも早くできた。初代米沢彦八(?‐1714)はすでに元禄のころに生玉(いくたま)社境内で葭簀張りの興行を行ったようであり,松田弥助や初代桂文治は,寛政から文化・文政のころにかけての寄席興行の基礎を固めている。天保から弘化(1844‐48)のころに桂(かつら)・林家(はやしや)・笑福亭(しようふくてい)・立川(たてかわ)のいわゆる上方四派の噺家たちが大いに活躍したために大坂の寄席の形態は完成され,寄席興行はすこぶる隆盛であった。…

【落語】より

…その後まもなく,〈はなし〉を〈軽口〉というようになるとともに,はなしのおもしろさを効果的に結ぶ〈落ち〉の技術もみがかれていった(後出〈落ちの型〉を参照)。
[辻咄時代]
 落語が飛躍的に進歩したのは,延宝・天和年間(1673‐84)ごろから京都で辻咄(つじばなし)をはじめた露(つゆ)の五郎兵衛と,おなじころ江戸で辻咄をはじめた鹿野(しかの)武左衛門,貞享年間(1684‐88)ごろから大坂で辻咄をはじめた米沢彦八という3人の職業的落語家の功績だった。 辻咄というのは,街の盛場や祭礼の場によしず張りの小屋をもうけ,演者は広床几(ひろしようぎ)の上の机の前で口演し,聴衆は床几に腰をかけて聴くという形式をとり,晴天に興行して道ゆく人の足をとめ,咄が佳境にはいったころを見はからって,銭を集めて回るという庶民的演芸だった。…

※「米沢彦八」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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