デジタル大辞泉 「壇」の意味・読み・例文・類語
だん【壇】[漢字項目]
〈ダン〉
1 土を小高く盛り、上を平らにした所。「花壇・祭壇」
2 他より一段高くした設備。「壇上/演壇・教壇・降壇・登壇・仏壇」
3 学芸の専門家の社会。「歌壇・画壇・楽壇・詩壇・俳壇・文壇・論壇」
〈タン〉の1に同じ。「
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
古代中国で祭祀をはじめ朝会,盟誓,封拝などの大典を行うために,平たんな地上に設けられた土築の高い露台。古代以来,皇帝がとくに壇を築いて犠牲を供え,柴を燔(た)いて丁重を示し,みずから天神をまつる祭祀が行われた。《礼記(らいき)》祭法篇に〈柴を泰壇に燔き,天を祭る〉という(天)。古く殷・周時代においては,それはみずから遠祖の民族神信仰に連なるものであったとみられる。歴代の皇帝は,天命を受けて政をしく天子として,上帝をまつってその功徳に報ずる儀式を行うのがつねであった。その祭祀には,とくに霊山聖域を選んで行う封禅(ほうぜん)と,主として都城の郊外で行われる郊祀とがあった。封禅は,山上に土を盛り壇を築いて天をまつる封拝と,山下に土を平らにし墠(ぜん)(また壇,禅)をつくって地をまつる禅祭とを併称する。歴史的には,秦の始皇帝が前219年に泰山で行った例,前漢の武帝が前110年(元封1)に泰山で行った封禅が知られる。すでに秦・漢の泰山の封禅には本来の報徳の義をはなれ,不老長寿の祈願など,神仙思想(神仙説)の影響や道教的な色彩がみとめられたが,この儀式は後世,宋代以降はついに廃絶した。郊祀は,歴代王朝がほとんど例外なく挙行した重要な祭祀儀礼であり,近くは清代末期まで続けられたもので,その遺構も現存する。
祀天祭地をはじめ,古代中国の祭祀制度には自然信仰の面がつよく,歴代王朝が建設した壇もその内容を反映している。実際の建築としては,祭祀,跪拝を行う本来のかたちの露壇と,空間構成をもつ建築群からなる祠廟という両種の形態をとる場合があるが,一般にこれらを併せて壇廟と総称することが多く,天壇,地壇,日壇,月壇および社稷(しやしよく)壇,水・火・山・川の壇,あるいは城隍(じようこう)廟,土地廟,四瀆(しとく)や五岳の廟,先蚕廟,風・雲・雷・雨諸神の廟などが建設された。歴史を通じて重要な儀礼とされた天子祀天の壇は,泰壇,郊壇,郊丘,郊兆,圜丘(えんきゆう),円丘,天壇等とよばれ,都城の南郊に設けられるのが原則で,前漢の成帝が前32年(建始1)に長安に築いたのをはじめ,歴代王朝の多くが建設したが,規模,形式は一定ではない。
現存する北京の天壇は,明代初期に天地合祀の殿として創建され,嘉靖年間(1522-66)に合祀制を廃して圜丘が築かれ,清朝もこれをうけつぎ乾隆年間(1736-95)に拡張整備を行ったもので,その後の焼失,再建を経ているが,乾隆当時の規模,形式を伝えている。皇帝が毎年冬至にみずから天をまつる,圜丘と称する白石3成の露壇のほか,毎春に五穀の豊饒を祈願する祈年殿や,皇穹宇,斎宮などの建築群で構成されている。天壇は,当初は城外の南郊に位置し(のちに外城内となる),北郊には地壇が設けられ,前者が3成の円壇,後者が2成の方壇で,天円地方および陽陰をかたどった。このほか東西両郊には日壇・月壇も設けられていた。一方,《周礼(しゆらい)》考工記に〈左祖右社〉,すなわち宮城の左に祖廟,右に社稷壇を設けるという原則があるように,社稷壇は土地神・五穀神をまつる壇として,重要な位置を占めた。北京の社稷壇と太廟は紫禁城(故宮)の前方西東に現存し,前者は中央土と四方の五行説にもとづく色彩で表されている。
執筆者:田中 淡
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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