荘園の不輸租を公認できるのは太政官だけであり,国守にその権限はなかった。ところが10世紀初頭から国守の任国内支配について中央政府がこまかく干渉しない方針に転換すると,国守が独断で荘園の不輸(10世紀からは不輸官物(かんもつ)というのが正しい)を認めはじめた。このように国守の独断で不輸が認定された荘園を国免荘というが,その不輸認定はその国守の在任中だけ有効であった。中央政府はいうまでもなく国免荘を認めず,902年(延喜2)官符を基準とする格(きやく)前・格後の荘園整理方針をとり続けてきたが,1040年(長久1)の荘園整理令で当任国司以後の新立荘園は認めないとする新方針がうちだされてから,国免荘の実績をもつ荘園が公認される根拠が出現し,さらに延久の記録荘園券契所では1045年(寛徳2)が荘園整理基準とされ,同所の審査で不輸が認められた国免荘は,中央政府が不輸を公認したのと同様になった。
執筆者:坂本 賞三
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平安後期、国司の免判で租税官物や臨時雑役などが免除された荘園をいう。もともと未墾地の開発の認可は、三世一身法(さんぜいいっしんのほう)、墾田永年私財法以来、国司(国衙(こくが))の権限に属しており、しかも墾田は元来輸租田であったから、墾田開発の盛んとなる平安中期以降、国司のもつ権限の比重が大きくなった。官省符荘にかわり、国司によって立荘される国免荘が増え、この種荘園が一般化した理由である。摂関家など上層貴族の家司受領(けいしずりょう)により立荘された荘園も少なくない。しかし国免荘は、後任の国司の利害関係によって左右されることが多く、認否をめぐり紛争がしばしば起こっている。
[村井康彦]
権門寺社が開発や買得によって集積した田地について,そこに賦課される官物や臨時雑役などを,国司の権限で免除することによって成立した荘園。国司は,こうした措置で,権門寺社に納めるべき国家的給付の滞納分の代替にしようとした。平安中期に国司が国内の行政を中央政府から委任される体制が一般化した結果,可能となったもの。当初は免除した国司の在任中のみの措置だったが,のちには数代にわたる国司の免判(めんぱん)を獲得して,官省符(かんしょうふ)をえずに事実上公認される場合もあった。
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