後三条天皇の1069年(延久1)閏10月(《百錬抄》に閏2月とあるのは閏10月の誤りと解される)に太政官の朝所(あいたんどころ)に設置された荘園券契(証拠書類)審査機関。このとき寄人が定められたが,のち1111年(天永2)に記録所が作られたとき延久の例にならい上卿(しようけい)1人,弁1人,寄人(よりうど)3人が任ぜられたとあるので,同様な構成であったのであろう。この記録荘園券契所の設置はこの年2月と3月に出された荘園整理令と関連するものであるが,それまでの荘園整理令の実施が国司にゆだねられ,荘園領主から訴えがあったときだけ中央政府で裁決していたのに対し,中央政府に新設された機関で荘園券契を審査することに意義があった。ただし記録荘園券契所から官使を派遣して調査することはなかった。その後1111年に作られた記録所は訴訟裁決のための勘状作成を任務とし,荘園券契審査機能はなかったと思われ,また1156年(保元1)に作られた記録所は券契審査と訴訟勘状作成とを行ったように平安後期の記録所はそれぞれ異なる機能をもっていた。
→記録所
執筆者:坂本 賞三
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単に記録所ともいう。1069年(延久1)、後三条(ごさんじょう)天皇が荘園の整理を推進するために設けた機関で、太政官(だいじょうかん)庁内の朝所(あいたんどころ)に置かれ、寄人(よりゅうど)(職員)が任命された。荘園所有者より提出させた券契(証拠書類)を検討審査し、その結果を太政官に報告した。これを勘奏(かんそう)といい、太政官はその勘奏に基づいて官符を発布し、停廃を命じた。停廃の対象とされたのは、券契がない荘園、不正な手続でたてられた荘園、および前回の荘園整理令が出された1045年(寛徳2)以後の新立荘園などであった。これ以前、荘園の増加を抑制するため幾度か荘園整理令が出されたが、国司が執行していた。それを中央に関係官庁を設けて推進したもので、いちおうの成果をあげたが、天皇の在位期間が短かったこともあり、荘園新立の傾向を阻止するには至らなかった。その後1111年(天永2)、1156年(保元1)、下って1187年(文治3)、1202年(建仁2)にも置かれたが、みるべき成果はなかった。なお、1321年(元亨1)や建武(けんむ)新政府にも1333年(元弘3)記録所が置かれたが、これは荘園整理というよりは、政務にかかわる機関で、同一には扱えない。
[村井康彦]
1069年(延久元)後三条天皇が太政官朝所(あいたんどころ)に設置した延久荘園整理令の執行機関。上卿(しょうけい)―弁―寄人(よりうど)(実務官人・学者で構成。1人は大夫史)で構成された。荘園領主と国司に提出させた証拠文書を,個別荘園領主ごとに整理令の存廃基準(1045年以後の新立荘園の停止)にもとづき寄人の評定によって集中審理し,その結果を上卿が天皇に答申(勘奏),天皇は記録所勘奏にもとづいて存廃を決定し,上卿―弁―史が官符宣旨によって権門寺社・国司に通達。この整理作業の結果,荘園と公領の区分は明確にされ,以後荘園公領制は本格的に展開する。天永・保元の記録所も,正式には記録荘園券契所。
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…1069年(延久1)創設された〈記録荘園券契所〉の略称。のちにその性格・機能の変遷に応じて,〈記録所〉が正式名称となった。…
※「記録荘園券契所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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