地蔵堂村(読み)じぞうどうむら

日本歴史地名大系 「地蔵堂村」の解説

地蔵堂村
じぞうどうむら

[現在地名]中条町きのと

東を乙大日きのとだいにち(旧胎内川)が流れ、北は桃崎浜ももざきはま、南は乙村、東は岩船荒屋あらや(現荒川町)に接する。村名は現在桃崎浜龍福りゆうふく寺の本尊として祀られている地蔵尊に由来するという。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「色部分ちさうたう村 下」とみえ、本納八石三斗・縄高四二石四斗六合、家四軒と記される。同絵図では瀬波せなみ(岩船)蒲原郡の境が南方砂丘上に引かれており、当村はこの頃までは瀬波郡に属していたことになる。


地蔵堂村
じぞうどうむら

[現在地名]一宮町地蔵堂

笛吹川の支流京戸きようど川扇状地に位置し、北は中尾なかお村。地名は地蔵寺に由来するという(甲斐国志)。慶長古高帳に地蔵堂とみえ高一七一石余、幕府領。ほかに地蔵堂領一石余。元禄郷帳では旗本石谷・桜井の二家領。桜井氏は寛永一〇年(一六三三)に宛行われたと考えられる(「寛政重修諸家譜」など)。宝永二年(一七〇五)以降の領主の変遷はいちくら村に同じ。


地蔵堂村
じぞうどうむら

[現在地名]貝塚市地蔵堂

つつみ村の南西にあり、村域東部を熊野街道が通る。日根郡に属する。村名の起源ともなった勝軍しようぐん地蔵堂(勝軍寺とも)は、淳和天皇の頃に造られたと伝えるが、度重なる兵火で衰退し、現在は正福しようふく寺と称して法灯を伝えている。なお集落北端にある丸山まるやま古墳には、天正一三年(一五八五)豊臣秀吉根来雑賀攻めの時、秀吉自らが陣地を築いたといわれる(大阪府全志)。中世近木こぎ庄に属し、近世初頭の実報院諸国旦那帳(熊野那智大社文書)に「こき庄ノ内」として村名がみえる。慶長五年(一六〇〇)の近木庄諸村の村高書上(要家文書)によると高一八二石余で、うち荒・池成が二〇石余あった。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では二一五石余となり、うち山年貢二斗余・茶年貢二斗。


地蔵堂村
じぞうどうむら

[現在地名]中伊豆町地蔵堂

地蔵堂川上流域にあり、北は原保わらぼ村。文禄三年(一五九四)検地が行われ、検地帳に「大見之内地蔵堂村」とあったと伝える(増訂豆州志稿)。延宝四年(一六七六)の高一二六石余(「伊豆国中拾組高寄帳」石橋家文書)、元禄(一六八八―一七〇四)初年新田高六石余が加わる(元禄初年高帳)。江戸時代初期は幕府領、元禄一一年旗本三枝領となって幕末まで続いた(韮山町史)


地蔵堂村
じぞうどうむら

[現在地名]福井市地蔵堂町

福井城下の北西、日野川右岸近くに位置し、三屋みつや村の北にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では舟津ふなつ之郷の地に含まれていたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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