日本歴史地名大系 「城輪柵遺跡」の解説
城輪柵遺跡
きのわのさくいせき
酒田市街地より北東八キロの庄内平野北部水田地帯にあり、標高一一―一三メートル、大字城輪に大半が含まれる。総面積約五二万平方メートルに及ぶ平安時代の官衙遺跡で、国指定史跡。遺跡の北方一・五キロで荒瀬川・
遺跡の中心部で古くから古瓦や土器片が出土したため出羽国分寺に擬定する説があったが、昭和六年(一九三一)の土地改良工事中に密接して並ぶ角材列が掘出されたことを契機に、翌七年にかけて本格的な調査が行われた。その結果一辺二五センチ前後の角材がほぼ正方位に一辺を約七二〇メートルとする方形に並び、各辺の中央部には八脚門が開き、四隅には櫓が建っていたことが判明した。その後遺跡の性格をめぐってさまざまな論議が行われた。「日本書紀」などにみえる征夷の拠点としての出羽柵、または軍事的城柵説(上田三平)、出羽柵がのちに出羽国分寺になったとする説(阿部正己・喜田貞吉)などがあり、第二次世界大戦後には、昭和三〇年代に奈良時代末期から平安時代前期の出羽国府説(加藤孝・高橋富雄)などが唱えられた。同三九年、遺跡中心部分の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報