江戸前期の大名。幕府若年寄。美濃(みの)国(岐阜県)青野藩主。正吉の子。堀田正俊(まさとし)とは遠縁にあたる。1682年(天和2)3月若年寄。同8月5000石を加えられて1万2000石。84年(貞享1)8月28日、江戸城中において大老堀田正俊を刺殺。正休が正俊を刺殺した理由は明らかでない。正休が錯乱したという説もあるが、『徳川実紀』〔貞享(じょうきょう)元年8月28日の項〕はこれを否定。将軍徳川綱吉(つなよし)は自らを将軍に擁立した堀田正俊を、その初政期において重用したが、しだいに煙たがるようになり、正休をそそのかして殺させた、という巷説(こうせつ)もあったようである。正休は刺殺の前夜正俊を訪ねて「閑談」し、その翌日事件を起こしたので、世人は大いにいぶかしがった。正休は正俊刺殺後、居合わせた老中大久保忠朝(ただとも)らに殺されたが、水戸光圀(みつくに)はこれを不審とし、捕らえて事情をただすべきであった、と老中らを論難したという。
[木村 礎]
(泉正人)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸前期の幕臣。1656年,父正吉の遺領5000石を相続。74年,小姓組番頭,従五位下石見守に叙任。その後書院番頭,側衆と進み,82年,若年寄に昇進,1万2000石の大名となる。84年8月28日,江戸城中で大老堀田正俊を刺殺,彼も駆けつけた老中大久保忠朝らに斬殺された。正俊殺害の理由はその専権に対する公憤ともいい,また政務上の失策を正俊にとがめられた私怨ともいわれ,さだかでない。なお彼は正俊の父正盛と従兄弟である。
執筆者:辻 達也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…綱吉の初政期〈天和の治〉には正俊の補佐の功はすこぶる大きいと認められるが,やがてその権勢が幕臣の反感をよび,また剛直な性格が綱吉に嫌悪されるようになったと伝えられる。84年8月28日父の従弟若年寄稲葉正休(まさやす)に城中で刺殺された。理由は正休の私怨か,正俊専権への公憤か不明。…
…大和川を柏原の地点から西流させてただちに海に流下させたいとの地元の要望により,河内国河内郡今米村の中甚兵衛らが奔走して大和川付替え工事の請願を江戸幕府に提出した。1683年(天和3),幕命により稲葉正休(まさやす)らが河村瑞賢をともなって関係河川を視察したが,大坂市中の治水と舟運を重視する立場から大和川はんらんの原因は淀川河口にあるとして,瑞賢による84‐85年(貞享1‐2)の工事では淀川本流の浚渫(しゆんせつ)および新堀(安治川)の開削が行われ,大和川の分流計画は退けられた。しかし,10年余を経て,新田開発をともなう治水の見地が優先して新大和川の掘削が計画され,旧本流には用水路および舟運路としての機能を残し,旧川床および沼沢地を新田開発に当てることになった。…
※「稲葉正休」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新