日本歴史地名大系 「菅浦」の解説
菅浦
すがうら
〔菅浦供御人〕
菅浦が天皇に供御(贄)を納める浦として成立したのは「天智天皇御宇」であるという所伝(永仁四年一一月蔵人所下文)は、鎌倉末期には浦の人々に定着していたとみられ、その源流を琵琶湖東岸の
菅浦
すげうら
日本海に面し、東は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
菅浦が天皇に供御(贄)を納める浦として成立したのは「天智天皇御宇」であるという所伝(永仁四年一一月蔵人所下文)は、鎌倉末期には浦の人々に定着していたとみられ、その源流を琵琶湖東岸の
日本海に面し、東は
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琵琶湖北岸葛籠尾崎(つづらおざき)の西のつけ根にある中世以来の集落。現在の滋賀県長浜市の旧西浅井町菅浦。古くは〈すがのうら〉と呼んだ。湖岸の道がなかったころ他との交通はほとんど舟に頼ったため,陸の孤島といわれた。大正年間1200余点の中世文書が発見され,中世社会ことに〈惣〉の研究にきわめて重要な史料を提供することとなった。
古代では湖北水運の一停泊地として《万葉集》にも歌われ,天皇に魚鳥を貢進する贄人(にえびと)集団が定着していたらしい。平安末期高倉天皇のときかと思われるが,住民の一部は内蔵寮(くらりよう)御厨子所(みずしどころ)供御人,蔵人所供御人の身分を得て漁労や湖上舟運等の特権を保証された。しかし菅浦自体は寺門円満院領大浦荘に含まれていたから,そこから独立するために,寺門との対抗上竹生島およびその本寺山門檀那院の支配に属することになった。以後鎌倉後期から200年弱の間,大浦荘と狭小な耕地日差,諸河の帰属をめぐり熾烈な争論を繰り返した。住民は日吉神人の号も有したが,1335年(建武2)には堅田浦の湖北進出に対抗するため,在家72宇がすべて供御人の称を得,コイ,ビワ,麦,大豆等の貢進を契約している。室町期には日野裏松家の所領ともなった。
このように支配関係は複雑を極めたが,その下で惣として活発な自治活動を展開している。1346年(正平1・貞和2)の置文を初めとして,自検断や家の相続方法を規定した地下掟(じげおきて)がたびたび出された。山林・田畠等惣有財産も所有している。惣の機構としては年齢階梯制をとり,廿人乙名(おとな),中乙名,若衆の存在が確認される。また惣は子孫のために,大浦荘や領主との合戦の由来を詳細に書き残すなど歴史意識にも目覚めていた。しかし戦国時代になり湖北に浅井氏が台頭すると,その支配下に組みこまれた。浅井氏への年貢未進は借銭・借米として累積し,しだいに惣財政を圧迫する一方,惣の中に浅井氏と被官関係を結ぶ者も現れた。その結果ついに1568年(永禄11),惣は守護不入の自検断を放棄せざるをえなくなり,つづく織豊政権下ではさらに自治の縮小を余儀なくされた。
近世では1602年(慶長7)の検地で,田畠合わせて71町6反5畝22歩,石高473石と決められ,51年(慶安4)膳所(ぜぜ)藩領に編入され幕末に至っている。自治の面では近世においても藩任命の代官および村方三役とは別に〈忠老役〉があり,村法,山法等の作成にも独自の力を行使し,ときには代官と対決するなど自治の伝統を強く残している。集落の東西入口には現在も四脚門を残し,ほぼ100軒に固定された家も屋号に中世のものを伝えるなど,歴史・民俗の宝庫ともいえよう。なお〈菅浦文書〉は重要文化財として,滋賀大学経済学部日本経済文化研究所史料館(現,経済学部付属史料館)に保管されている。
執筆者:瀬田 勝哉
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古くは「すがのうら」とも。近江国伊香郡にあった浦で,近世の菅浦村になる地域。琵琶湖の北端に突き出た葛籠尾(つづらお)半島の一部で,現在の滋賀県長浜市西浅井町にあたる。平安末期から住人は朝廷の供御人(くごにん)として特権を認められていた。村の鎮守の須賀神社に残された「菅浦文書」により,中世には惣(そう)とよばれる自治的な村落が存在したことが知られる。鎌倉後期から大浦荘からの惣村の独立を求めて200年にわたる抗争が続けられた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…琵琶湖北岸葛籠尾崎(つづらおざき)の西のつけ根にある中世以来の集落。現,滋賀県伊香郡西浅井町菅浦。古くは〈すがのうら〉と呼んだ。…
… ところで境相論は,いったん紛争が惹起すると,一定の手順を踏んで決着をつけようとしても,結局は武力的衝突(実力行使)となるのが常であった。1449年(宝徳1)の近江菅浦と隣荘大浦の間での山論では,近郷の〈乙名〉の仲介で入会協定が取り結ばれるが,協定侵犯がもとで〈合戦〉状態になっている。それは70~80歳の老人さえ弓矢を取るほどの激しいものであった。…
…1070年(延久2)筑摩御厨は停止され,このころまでに漁労,狩猟だけでなく,魚鳥の商人,廻船人として,京都をはじめ広域的に遍歴,交易を行うようになっていた贄人たちを,天皇家は供御人とし,諸国の自由通行権を保証して再組織していく。勢多御厨の流れをくむ粟津橋本供御人,御雉所に統轄された鷹飼すなわち雉供御人,少しおくれて湖北の菅浦(すがうら)供御人が湖で活動するようになるが,一方,大寺社もまた海民を独自に組織すべく競合し,延暦寺は大津,坂本を中心に借上(かしあげ)として各地に広く活動した日吉神人(ひえじにん)を組織,園城寺も大津に進出する。さらに鴨社(賀茂御祖神社)は78年(承暦2)堅田網人を堅田御厨供祭人とし,賀茂社(賀茂別雷神社)も90年(寛治4)までに船木浜に本拠を置き,安曇川に簗をかけた人々を安曇川御厨供祭人とした。…
※「菅浦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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