江戸後期の国学者。延享(えんきょう)3年5月5日生まれ。武蔵(むさし)国児玉(こだま)郡保木野(ほきの)村(埼玉県本庄(ほんじょう)市児玉町)の百姓荻野宇兵衛(おぎのうへえ)の長男。幼名寅之助(とらのすけ)。7歳、病により失明、辰之助(たつのすけ)と改称。15歳、江戸に出、雨富検校須賀一(あめとみけんぎょうすがいち)に入門、千弥と改名。翌年、須賀一の勧めで、歌学を萩原宗固(はぎわらそうこ)に、神道を川島貴林(たかしげ)に学ぶ。のち故実を山岡浚明(まつあけ)に、医学を東禅寺の孝首座(こうしゅそ)に学ぶ。18歳、保木野一と改名。24歳、宗固の勧めで賀茂真淵(まぶち)に入門。30歳から塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改める。34歳、各地に存する未刊の国書を叢書(そうしょ)として出版することを志し、41歳(1786)から『群書類従』(530巻1270種)の刊行を開始し、幕府の援助を得て、74歳(1819)完成する。当時の本屋は仲間以外の出版物を扱わなかったので、販売面でも苦労し、年頭には予約購読者を訪ねて挨拶(あいさつ)して回ったという話も伝わる。
48歳(1793)江戸・表六番町和学講談所を開設し、後進の教育と、図書・史料の研究調査活動を進めた。温故堂の号は、初め松平定信(さだのぶ)が講談所に命名したもの。『大日本史』の編纂(へんさん)・校訂に協力したほか、『続群書類従』『史料』などの出版も計画したが未完成に終わる。76歳、総検校となる。著書に『花咲松(はなさくまつ)』『武家名目(みょうもく)抄』などがある。『群書類従』の版木1万7244枚は東京都渋谷区東の温故学会に、和学講談所の蔵書は国立公文書館に現蔵。文政(ぶんせい)4年9月12日没(文政5年7月9日公儀に届出)。76歳。墓は東京都新宿区若葉町の愛染院と埼玉県本庄市児玉町の竜泉寺とに現存する。本庄市には記念館があり、生家も保存されている。
[梅谷文夫]
『太田善麿著『塙保己一』(1966・吉川弘文館)』▽『温故学会編『塙保己一研究』(1981・ぺりかん社)』
江戸後期の国学者。武蔵国児玉郡の人。旧姓荻野。通称寅之助,千弥など。名は保木野一。号は温故堂,水母子など。幼にして失明,江戸に出て雨富検校須賀一に入門し,鍼術や音曲などを修得,後年総検校となる。山岡明阿に律令,萩原宗固に歌文,さらに宗固の勧めで賀茂真淵に六国史などを学んだが,真淵は入門して半年後に没した。1779年(安永8)に《群書類従》の編纂に着手,40年を費やして本事業を完成させ,ついで続編の計画を進めた。その間,水戸の彰考館に召され,《参考源平盛衰記》や《大日本史》の校訂を委嘱された。さらに1793年(寛政5),幕府の援助を得て和学講談所を開設,国史・律令の校訂出板,また六国史以降の史料による修史事業《史料》の編纂に取り組んだ。その実証主義に貫かれた堅実な学風は,近代史学の礎を築くとともに,門下に屋代弘賢,石原正明,中山信名ら幾多の俊秀を輩出した。編著に,《花咲松》《蛍蠅抄》《武家名目抄》《鶏林拾葉》《皇親譜略》《水母文集》などがある。
執筆者:鈴木 淳
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1746.5.5~1821.9.12
江戸後期の国学者。父は武蔵国児玉郡保木野(ほきの)村の豪農荻野宇兵衛。通称は寅之助などをへて保己一,号は温故堂など。7歳で失明し,雨富須賀一(すがいち)に音曲・鍼医術を,萩原宗固(そうこ)・川島貴林(たかしげ)・山岡浚明(まつあけ)に歌文・神道・律令を学んだ。賀茂真淵にも短期間師事。1779年(安永8)に「群書類従」の編纂に着手し,41年後に全670冊の刊行を完了。この間,「大日本史」の校正にも参加,93年(寛政5)には和学講談所を設立。六国史以後の史料を集めた「史料」の編纂により,のちの「大日本史料」の先駆的業績も残した。その堅実な考証は近代史学につながるものと評される。1821年(文政4)総検校。ほかに編纂書は「武家名目抄」「鶏林拾葉」。
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