(小原仁)
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平安時代の僧。狂人をよそおって名利を逃れ,道心を貫いた高僧。橘恒平の子。幼いときから仏法に志し,慈恵大僧正(良源)の弟子となった。比叡山で学ぶうちに遁世の思いがつのり,周囲の人々の制止にもかかわらず多武峰(とうのみね)に籠居し,法華経読誦と念仏にあけくれた。しかし聖僧としての名声は高まり,冷泉天皇の護(御)持僧(ごじそう)に召し出されたが逃げ帰った。また三条太皇太后の出家の戒師に召されたとき,儀式が終わるや,下痢でたえられないといって宮中の所かまわず汚物を落とした話など,その奇行の数々は,いずれも道心を貫くためのもので,世俗化した大寺院の仏教に批判的な人々の間で,増賀が遁世者,極楽往生者の理想として語り伝えられたことが知られる。
執筆者:大隅 和雄
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平安中期の天台宗の僧。京都に生まれる。父は参議橘恒平(たちばなのつねひら)。幼くして大津坂本に住し、仏教にあこがれ、10歳で比叡山(ひえいざん)に登って良源(りょうげん)に師事した。当時の僧が世に名をあげることを目的とする姿をみてこれを批判し、素衣を着、貴族の請いを拒むあまりの行動は、奇矯の僧とみられた。師の良源の声望が高まるさまに反抗し、963年(応和3)大和(やまと)(奈良県)多武峰(とうのみね)に隠棲(いんせい)して修行に励んだ。天台の教学を講じては蘊奥(うんのう)を極め、密教修法に効験(こうけん)あらたかであったといい、師事する弟子も多かった。長保(ちょうほう)5年6月9日、87歳で寂した。
[木内堯央 2017年8月21日]
…また禅林以外では〈名聞コソ苦シカリケレ。乞食(かたい)ノミゾタノシカリ〉(《発心集》)とうそぶいていたという増賀上人が,風狂の先達として西行,長明,兼好,芭蕉らに慕われている。その後風狂は世事を外にして風流韻事に徹する生き方を意味するようになるが,これはいわば風狂のファッション化,矮小化であるとみられる。…
※「増賀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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