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増賀 ゾウガ

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デジタル大辞泉の解説

ぞうが【増賀】

[917~1003]平安中期の天台宗の僧。橘恒平の子。比叡山で良源に顕密を学んで諸国を遊行。のち多武峰(とうのみね)に入って修行。著「玄義鈔」。

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百科事典マイペディアの解説

増賀【ぞうが】

平安中期の高僧。参議橘恒平の子。10歳で比叡山に上り,良源に師事したが,963年には多武峰に隠棲,名利を忌避して奇行をくりかえした。《本朝法華験記》下82によれば,冷泉天皇〔950-1011〕が護持僧として招請したのに〈口に狂言を唱へ,身に狂事を作して〉従わず,皇太后藤原詮子〔962-1001〕の前でも禁句を発し,《続本朝往生伝》12では,その際放屁をして退出,良源が大僧正になった時にも,牝牛に乗り干鮭を太刀にはくという異装で抗議の意を表したという。
→関連項目多武峯少将物語慶滋保胤

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

増賀 ぞうが

917-1003 平安時代中期の僧。
延喜(えんぎ)17年生まれ。天台宗。比叡(ひえい)山の良源に師事。天台学に精通し,密教修法に長じた。名利をさけるため奇行を演じ,大和(奈良県)多武峰(とうのみね)にかくれて,修行にはげんだ。長保5年6月9日死去。87歳。俗姓は橘(たちばな)。通称は多武峰先徳。著作に「法華玄義鈔(ほっけげんぎしょう)」など。
【格言など】みづはさすやそぢあまりの老ひの波くらげの骨にあふぞうれしき(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

増賀

没年:長保5.6.9(1003.7.10)
生年:延喜17(917)
平安中期の天台宗の僧。橘恒平の子。名聞を厭い多武峯(奈良県桜井市)に隠棲したことで知られており,後世,遁世者や往生者の理想とされ,さまざまな奇行が非世俗的行為として称賛された。種々の増賀伝は潤色が多くにわかには信じがたいものがあるが,一説によれば,10歳のとき,比叡山に上って良源の弟子となり,法華経の読誦を怠らず顕密の行法を学んだという。しかるに応和3(963)年7月,入道如覚(藤原高光)の勧めにより多武峯に入り草庵一乗房を結んで籠居した。千満,如覚,泰善などに教法を授ける一方,康保1(964)年には『摩訶止観』を講じ,同2年には法華文句を説き,康保1年から天延1年(973)にかけては毎季37日の法華三昧を修し,寛和1(985)年には『法華玄義鈔』を著した。他方,正暦1(990)年には不動供を修して自ら不動形を現じ,長徳2(996)年の夏安居(陰暦4月15日から7月15日まで一室にこもり修行すること)には法華経読誦を怠らず,観音,文殊を感得するという神秘を示したという。隠棲以後は人との交わりを極力避けた。宮中に汚物を落とすといった逸話が奇矯な振る舞いとして多くの説話集に語り伝えられているが,それは彼がいかに俗世を拒否したかの現れであり,古代から中世にかけての遁世者や浄土願生者にとっては,それこそが聖の理想像と考えられたのである。<参考文献>平林盛得「増賀の多武峯隠棲前後」(『聖と説話の史的研究』)

(小原仁)

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世界大百科事典 第2版の解説

ぞうが【増賀】

917‐1003(延喜17‐長保5)
平安時代の僧。狂人をよそおって名利を逃れ,道心を貫いた高僧。橘恒平の子。幼いときから仏法に志し,慈恵大僧正(良源)の弟子となった。比叡山で学ぶうちに遁世の思いがつのり,周囲の人々の制止にもかかわらず多武峰(とうのみね)に籠居し,法華経読誦と念仏にあけくれた。しかし聖僧としての名声は高まり,冷泉天皇の護(御)持僧(ごじそう)に召し出されたが逃げ帰った。また三条太皇太后の出家の戒師に召されたとき,儀式が終わるや,下痢でたえられないといって宮中の所かまわず汚物を落とした話など,その奇行の数々は,いずれも道心を貫くためのもので,世俗化した大寺院の仏教に批判的な人々の間で,増賀が遁世者,極楽往生者の理想として語り伝えられたことが知られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

増賀
ぞうが
(917―1003)

平安中期の天台宗の僧。京都に生まれる。父は参議橘恒平(たちばなのつねひら)。幼くして大津坂本に住し、仏教にあこがれ、10歳で比叡山(ひえいざん)に登って良源(りょうげん)に師事した。当時の僧が世に名をあげることを目的とする姿をみてこれを批判し、素衣を着、貴族の請いを拒むあまりの行動は、奇矯の僧とみられた。師の良源の声望が高まるさまに反抗し、963年(応和3)大和(やまと)(奈良県)多武峰(とうのみね)に隠棲(いんせい)して修行に励んだ。天台の教学を講じては蘊奥(うんのう)を極め、密教修法に効験(こうけん)あらたかであったといい、師事する弟子も多かった。長保(ちょうほう)5年6月9日、87歳で寂した。[木内堯央]

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世界大百科事典内の増賀の言及

【風狂】より

…また禅林以外では〈名聞コソ苦シカリケレ。乞食(かたい)ノミゾタノシカリ〉(《発心集》)とうそぶいていたという増賀上人が,風狂の先達として西行,長明,兼好,芭蕉らに慕われている。その後風狂は世事を外にして風流韻事に徹する生き方を意味するようになるが,これはいわば風狂のファッション化,矮小化であるとみられる。…

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