仏道(宗教)修行者が布教教化のため諸方を遍歴すること。釈尊も実践している。古代日本の官寺仏教は,僧尼令で山林修行を除き,遊行を認めていない。しかし,聖(ひじり)と称された私度僧や沙弥(しやみ),優婆塞(うばそく),持経者たちの間では遊行乞食(こつじき)が宗教実践であった。それは仏教渡来以前の日本固有の山岳宗教とも結びついていたし,日本古代宗教の神の遊幸信仰とも関係していた。神や祖霊は,遊行聖に憑依して諸方を訪れるのであり,聖は一種の客人神として恐れと尊敬の念で迎えられた。奈良時代の行基の聖集団は遊行もしており,葬送(遊部(あそびべ)の流入による),社会福祉事業や土木事業によって,豪族から庶民に至る救済を行った。これは,平安時代の空也系聖,鎌倉時代の重源(ちようげん)や律僧の叡尊,忍性に継承された。中世の高野聖,善光寺聖(善光寺),絵解聖(絵解き),熊野比丘尼らの遊行は,その奉じる寺社の信仰を勧めたが,一部で商人化,売笑化の道をたどった者もいた。
しかし,遊行聖の典型は,寺に住せず,踊念仏と賦算(ふさん)(念仏の札配り)の一生を送った時宗開祖一遍と,彼に従った時衆に見いだしうる。一遍没後は他阿真教が遊行上人となり,道場経営にも力を入れた。また,遊行上人が老病などのため遊行困難となると道場に隠居し(独住という),藤沢上人と号した。神奈川県藤沢市の清浄光寺(遊行寺と俗称)に独住したからである。中世の遊行聖の活躍は著しく,真宗の人々や《天狗草子》《野守鏡》などによってはその狂騒や低俗性,教義の邪道が指弾されているが,逆に時宗の盛行がうかがえ,《実盛》などの謡曲は遊行上人の霊験を誇示している。初期時宗教団では破戒僧(僧尼一体のため風紀の乱れもあった)や上人に帰命しない僧は不往生として教団を追放された。上人は生身の阿弥陀であるとされていたからである。幕府や大名から通行の自由を保証され,客寮というアジールも持った。また軍陣に従う陣僧(従軍僧)の時衆も出て,敵味方間を自由に往来し,戦死者には十念を授けた。遊行上人の過去帳には,浄財勧募のために生前に記帳することも行われた。上人は武士階級や貴顕と接するうち,文芸芸能などに関係するようになり,時衆も和歌,連歌,唱導などに関与するようになった。近世に入ると幕府の朱印状,保護を得,遊行も権威主義的になり,その華美を批判されるようになったが,反面,時代に即して現世利益の布教に傾き,諸種のお守札を配ったりもした。
→時宗
執筆者:梅谷 繁樹
寺院を離れ,村落や街巷を説法教化しながら巡遊する布教師を中国で遊行僧という。南北朝時代,義邑・法社など信者組織の発生にともない邑師・社僧たちの活躍が著しく,さらに寺院・邑社に定住することなく民衆教戒に従う僧が増える。円仁《入唐求法巡礼行記》が紹介する化俗法師であり,遊化僧,説法師などとも呼ばれた。平易に因縁説話を語り,それを音曲にのせ,あるいは絵解説法を行い,医療,祈雨,葬式などを通じ民衆を教化した。
執筆者:藤善 真澄
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…一遍は,1271年(文永8)から74年にかけて,信濃国の善光寺,伊予国の窪寺,紀伊国の熊野本宮などで参籠修行を行い,独自の悟りを開いた。なかでも74年に,念仏の札を信・不信を問わずにくばるようにという熊野権現の神託を受けて以来,16年にわたる遊行の活動を続け,その足跡は,北は奥州から南は大隅国に及んだ。一遍の信仰は,阿弥陀如来を信仰しつつも,〈南無阿弥陀仏〉の名号に救いの絶対的な力があり,ひたすら名号をとなえよというものであった。…
…聖地が旅の対象となった巡礼は,まさにこの種の旅の社会的装置化であり,逆に聖地巡礼という旅の形式が存在する理由は,こういう旅の性格を考えるとき,もっともに思えてくる。また放浪の旅人が,遊行者として聖なる眼で見られるのも,所用にみちた日常的関係世界に対する反世界に生きる人だからだろう。 さて離脱の動機ないし効用はさらにもう一つ考えられる。…
…清浄光(しようじようこう)寺(遊行寺ともいう)を拠点とし,回国する時宗の指導者の称。特に時宗の開祖一遍,その弟子で時宗遊行派の祖他阿真教をさすことも多い。…
※「遊行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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