士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

士・農工商・穢多非人
しのうこうしょうえたひにん

近世封建社会の身分。この差別的制度は階級社会の社会的秩序を維持・強化するためにつくられたものであり、江戸時代の封建的身分には士(支配身分)・農工商(平民身分)・穢多非人のほか、士に準ずる公家(くげ)・神官・僧侶(そうりょ)などがあった。近世の身分制度は、豊臣(とよとみ)政権期の太閤(たいこう)検地、刀狩令(かたながりれい)、身分統制令などの政策によってしだいに整備され、江戸時代に入っていっそう徹底したものとなった。[成澤榮壽]

武士

武士は支配身分として武力を独占し、政務に携わり、特権を享受したが、この身分内部における身分的構成は複雑多岐にわたり、差別的な規制は厳格であった。たとえば、同じ大名であっても、御三家(ごさんけ)および金沢の前田家、大身外様(たいしんとざま)、家門(かもん)・門閥譜代(もんばつふだい)、譜代城持格(しろもちかく)以上、中堅譜代、小身(しょうしん)外様、小身譜代によって江戸城中の詰所(つめしょ)の格式を異にした。
 家臣団については、たとえば広島藩では、1868年(慶応4)、最上位の長柄(ながえ)以上の者は100人で、家老以下、年寄、番頭(ばんがしら)、寄合、旗奉行(はたぶぎょう)、用人、大小姓組頭(おおこしょうくみがしら)、中小姓頭、大目付などがこれに属した。次が布衣(ほい)以上の者で87人、留守居(るすい)、郡(こおり)奉行、町奉行、勘定奉行、普請(ふしん)奉行、歩行頭(おかちがしら)などがこれに属し、その下に馬持(うまもち)以上305人があり、さらにその下に御前御用(おんまえごよう)(御直御用(おじきごよう))23人、御序(おついで)の御前御用39人があった。そのまた下に役方(やくかた)291人、中小姓228人、儒医組(じゅいぐみ)106人があって、以上の1179人が家中(かちゅう)(侍士(じし))であった。家中の下には御前(藩主)に直接応答できない歩行(おかち)(徒士)があり、これには左右小姓組に属する者70人、外様歩行組に属する者257人、他の諸役方配属の者453人、計780人がいた。ここまでが士分(しぶん)で、その下に小人(こおひと)とよばれる足軽(あしがる)がいて、これは卒(そつ)身分であり、およそ2000人、諸役方の下役に従事した。
 こうした身分的差異は日常生活を隅々まで規制した。そのことについて、福沢諭吉は、その著『旧藩情』において、出身藩の豊前(ぶぜん)中津藩では、足軽は上級士族に対して雨中でも往来で出会ったときには下駄(げた)を脱いで路傍に平伏し、足軽以上の小役人も大身に対して同様にするのが作法になっていたと述べている。[成澤榮壽]

農民

武士身分の下に平民身分として農工商があった。農民を上位としたのは儒者の思想上のことであって、実際は農工商は並列した身分的存在であった。通常農民身分で特定条件を備えている者は百姓とよばれ、年貢負担者として、平民身分のなかで武士からもっとも厳しい支配・統制を受けた。農民の場合も身分内部の身分的差異は甚だしく、名主(なぬし)(地方により庄屋(しょうや)、肝煎(きもいり)などと称した)、組頭(くみがしら)、百姓代(ひゃくしょうだい)の地方三役(じかたさんやく)(村方三役(むらかたさんやく))をはじめとする石高所持者の本百姓(ほんびゃくしょう)は一人前の農民であったが、無高の水呑(みずのみ)百姓は村寄合(むらよりあい)に参加する権利がなかった。水呑百姓の下には、地方により、有力な本百姓に隷属し、独立した生計を営めない名子(なご)、門屋(かどや)、家抱(けほう)、被官(ひかん)などとよばれる農民があり、さらに隷属性の強い譜代(地方によっては庭子(にわこ)、買子(かいこ)と称した)も存在した。無高の水呑百姓以下は厳密には百姓ではない。士農工商の農民イコール百姓ではないのである。美濃(みの)(岐阜県)大垣藩では、庇(ひさし)・濡縁(ぬれえん)・破風板(はふいた)・釣天井(つりてんじょう)および3尺以上の座敷口の造作、衛門・兵衛・太郎・太夫(たゆう)のついた命名は頭(かしら)百姓(本百姓)には許されたが、下(しも)百姓(水呑百姓)には許されなかった。また、下百姓は頭百姓の宅内へ履き物を履いて入ることも認められなかった。[成澤榮壽]

町人

工商は通常町人とよばれ、農民と同じく、日常生活や衣服に及ぶ身分的制約を受けたが、一部商人の経済力はしだいに武士を圧倒し、元禄(げんろく)(1688~1704)、文化・文政(ぶんかぶんせい)(1804~30)期などの庶民文化の担い手となった。江戸の場合、町奉行のもとに町年寄(まちどしより)(3氏。大坂では惣(そう)年寄)があり、そのもとに約260人の町名主がいた。名主が差配する各町の正式な構成員は地主と家持(いえもち)で、これを町人とよんだ。管理人である家主(いえぬし)(大坂では家守(やもり))は準町人であったが、地借(じがり)(大坂にはない)や店借(たながり)(店子(たなこ))は一人前の町人とは認められず、ほとんど無権利状態であった。[成澤榮壽]

賤民

士・農工商の4身分の下に、穢多・非人を主要部分とする賤民(せんみん)身分があった。穢多は斃牛馬(へいぎゅうば)処理、皮革の加工、農業や雑業的手工業などを行い、非人は主として乞食(こじき)をしたが、加賀藩のように、非人の物乞いを禁じ、彼らに雑業的手工業や日雇労働に従事させ、新田開発を奨励した藩もあった。また、江戸周辺では、斃牛馬処理権をもつ穢多のもとで、実際の仕事は主として非人がやらされた所もあった。多くの地方では、穢多は、賦役として、警察・刑場関係の下役人足に従事させられ、百姓一揆(いっき)などに際しては、弾圧の手先に使われることもあった。しかし江戸では、刑場の、とくにむごい下役には非人が従事させられた。また、加賀藩では、同藩の賤民の中核的存在であった藤内(とうない)が警察関係の下役人足に従事、穢多はまったくこれを行わなかった。非人のなかには「足洗い」といって平民に戻れる者もあったが、穢多はそれが認められなかった。穢多・非人その他の賤民は一般庶民との交際を禁じられるなど、厳しい差別を受けた。彼らに対する上位身分の人々による蔑視(べっし)と迫害は、彼らがむごい賦役に従事させられることによって助長された。
 このような封建的身分は明治維新の改革で廃止された(四民平等)。しかしあらたに華族・士族・(卒族)・平民という身分関係がつくられ、その根本的廃止は第二次世界大戦後を待たなければならなかった。とりわけ旧賤民身分、とくに旧穢多身分であった人々に対する差別は、その後も厳しく存在した。身分制度が再編成されたのは1869年(明治2)であるが、旧賤民身分の人々が「平民」に編入されたのは「賤民解放令」が布告された1871年であった。彼らは従来の平民と区別され「新平民」という呼称が用いられることが多かった。旧賤民身分の人々は法的には平民となり、自由民権運動が発展する折から、彼らのなかから「解放令」を根拠として平等を要求する動きが現れた。大審院判決も彼らの祭礼行事への参加などの要求を支持する判決を出した。しかし、明治政府は自由民権運動を弾圧し、大日本帝国憲法を中心に、絶対主義的天皇制を確立させた。政府がいったん切り崩そうとした大地主を頂点とする半封建的な農村の構造を温存したので、小作人の地主に対する経済外的強制などの隷属性は維持された。また、家父長的「家」制度が確立されたことによって女性差別が法的に存続することとなり、これらが絶対主義的天皇制の有力な支柱となった。こうした反動化は封建的身分に起因する社会的身分差別の撤廃をすこぶる困難にした。旧賤民身分の人々への差別も存続し、大審院判決も彼らの要求を退けることが多くなり、民衆の間でも「新平民」という呼称がいっそう差別的に用いられるようになった。こうして大日本帝国憲法の制定前後に部落問題は社会問題化した。1907年(明治40)前後から(明治末以降、官庁を中心に「細民部落」が用いられた一時期を除き)「新平民」にかわって「特殊部落」の呼称が主流となった。この呼称も侮蔑(ぶべつ)的に使われることが多く、差別と偏見の残存の厳しさを示した。[成澤榮壽]

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