多治比氏(読み)たじひうじ

改訂新版 世界大百科事典 「多治比氏」の意味・わかりやすい解説

多治比氏 (たじひうじ)

古代氏族。丹比,多治,丹墀にもつくる。《日本書紀》によると,宣化天皇の皇子上殖葉(かみつうえは)皇子(またの名は椀子(まろこ))を祖とする。また《三代実録》には,宣化天皇-恵波皇子-十市王-多治比古王という系譜と,誕生のときに多治比(イタドリ)の花が産湯の釜に飛来し浮かんだことにちなみ,多治比古と名づけたこと,および成長の後多治比公という姓を賜ったとの伝承が見える。684年(天武13)10月天武天皇が八色(やくさ)の姓(かばね)を定めたとき,最高の姓である真人を与えられた。多治比氏の本拠は河内国丹比郡とするのが通説。この氏には,天武朝の摂津職大夫の麻呂持統朝の右大臣で文武朝の左大臣である嶋,その子で奈良時代前期に民部卿・大宰帥中納言大納言等を歴任した池守,遣唐押使・中務卿・大宰大弐・民部卿・参議・中納言等を務めた県守,および越前守・遣唐大使・参議・中納言・式部卿等になった広成の兄弟をはじめ官人が多く,また遣唐使など対外交渉にあたった者も多い。奈良時代前期までは嶋とその子たちのようにかなりの勢力を誇った。しかし757年(天平宝字1)7月,橘奈良麻呂の変の際,多治比犢養・礼麻呂・国人ら一族の者が多く奈良麻呂に与同し,ために嶋の子で時の中納言広足は,同族を教導できずことごとく賊徒にした責任を問われて中納言の任を解かれ,以後多治比氏はあまりふるわなくなった。火明(ほのあかり)命の後と伝え,反正天皇の名代(なしろ)丹比部の伴造氏族で,宮城の丹治比門達智門)を守衛した丹比連(たじひのむらじ)(のち宿禰)は別の氏。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「多治比氏」の意味・わかりやすい解説

多治比氏
たじひうじ

古代の皇別有力氏族。多治、丹比、丹治、丹墀とも書く。宣化天皇(せんかてんのう)の皇子上殖葉(かむえは)王の孫多治比古(たじひこ)王の後裔(こうえい)。この王の誕生のとき、産湯に多治比(虎杖(いたどり))の花が飛来したので多治比古王と名づけ、子孫も多治比を氏としたと伝えるが、おそらくは河内国(かわちのくに)(大阪府)丹比(たじひ)郡の地名を負ったのであろう。初め公(きみ)(君)姓、684年(天武天皇13)真人(まひと)姓。天武(てんむ)・持統(じとう)・文武(もんむ)朝に歴仕した嶋(しま)が左大臣に昇進して大いに栄え、その子池守(いけもり)、県守(あがたもり)、広成(ひろなり)、広足(ひろたり)らも大(だい)・中納言(ちゅうなごん)に任じ、奈良中期までは一流貴族の地位を確保したが、その後は藤原氏繁栄の前にしだいに影が薄くなり、平安初期を境に、やがて中央政界から消えていく。武蔵七党(むさししちとう)の一つ丹党(たんとう)は、その子孫の武士化したものである。

[黛 弘道]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「多治比氏」の意味・わかりやすい解説

多治比氏
たじひうじ

古代の氏族。多治,丹治比などとも書く。河内国丹比郡が本貫で,大化の頃に左大臣嶋,奈良時代には中納言の県守,広成らが出た。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android