大沼村(読み)おおぬまむら

日本歴史地名大系 「大沼村」の解説

大沼村
おおぬまむら

[現在地名]下山村東大沼ひがしおおぬま

ともえ川の支流郡界ぐんかい川の右岸に位置し、西北の村境に標高六八三・五メートルの炮烙ほうろく山がある。東は平瀬ひらせ村・かじ村・小松野こまつの村、南はあららぎ村と額田ぬかたあららぎ村・折地おりじ村・上田代かみたしろ村・田代村、西は花園はなぞの村・柵之沢ませのさわ村、北は現豊田市・現足助あすけ町に接する。村域が広く、集落は小起伏面上に散在するが、現県道沿いに比較的集中。国道三〇一号、県道菅沼―東大沼線、県道東大沼―足助線、県道加茂公園―東大沼線が通る。

大沼城跡と代官屋敷がある。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]東村東大沼ひがしおおぬま

北は高田たかた村、西は椎塚しいつか(現江戸崎町)。集落の中心部は標高約三〇メートルの丘陵上、福田ふくだ貝塚の西南約一キロに位置する。村の南部は古代の榎浦えのうら流海とされる低地で新利根川が東流する。古墳が集落内に三三基あり、円墳が多く前方後円墳は四基。新宮しんぐう神社の永禄二年(一五五九)の棟札写に「弥太郎、子兼重、孫三良、常陸国河内郡大沼弥太郎御領地」とあり、中世は大沼氏が支配した。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]北山村大沼、三重県熊野くまの育生いくせい大井おおい

竹原たけはら村の西南、七色なないろ村から曲折して西に流れる北山川流域に位置。北山川の左岸に小名大河原おごら(現三重県熊野市)があり、慶長六年(一六〇一)の紀州室郡内大沼村之内大井御検地帳(徳川林政史研究所蔵)が残る。北山川両岸を村域としていたことがわかる。

「続風土記」に「於保能」の訓があり、明応六年(一四九七)四月一二日付の旦那売券(米良文書)に「在所比山之内大野」とみえる。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]丹生川村大沼

折敷地おしきじ村の西にある。吉城よしき郡に属し、南は大野郡大萱おおがや村・桐山きりやま村、中央を荒城あらき川が西流する。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳の荒木あらき郷に村名がみえ、折敷地村などとともに高付される。同一八年郷帳では大ぬま村として高二六石余。元禄検地反歩帳では高四一石余、田二町四反余・畑二町九反余。「飛騨国中案内」によれば免は三割六分七厘九毛、家数六、うち百姓五・門屋一。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]豊田市長沢ながさわ長沢東ながさわひがし

ともえ川の支流郡界ぐんかい川沿いにあり、松平地区では最南端に位置する。明治初年、現東加茂郡下山しもやま村の東大沼に対して西大沼とも称する。慶長六年(一六〇一)から滝脇たきわき松平氏の松平乗清家支配となり明治維新まで続く。同年の松平金次郎に宛てた家康の知行宛行状(徳川家康文書の研究)には、滝脇村・松平村、日影ひかげ(現岡崎市)、大沼村・羽明はあす村の名がみえる。

元禄八年(一六九五)の指上申手形事(滝脇小学校蔵)によれば滝脇村との間で境争いが起き、とびの巣山内八ヵ所は大沼村に預けられた林であることが確認された。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]日立市大沼町一―三丁目・金沢かねさわ町一丁目・同四丁目・東大沼ひがしおおぬま町一―四丁目・東金沢ひがしかねさわ町五丁目

西側は多賀山地丘陵で、東麓から東側には海岸段丘面が広がる。南側を大沼川が東流し、ほぼ中央を岩城相馬いわきそうま街道が縦貫する。南は森山もりやま村。海岸段丘面上に縄文時代後期から弥生時代初頭の大沼遺跡、土師器を出土する東山ひがしやま遺跡がある。

「新編常陸国誌」に「本村東林寺(今廃)所蔵慶長十一年二月六日文書ニ、オイヌマ村ト見エ、同十五年六月七日文書ニ大沼村ノ名アリ」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「大沼村」と記される。「水府志料」によると村の東西三一町・南北一〇町余、文化初めの戸数六六。駅所で、寛延二年(一七四九)から森山村と半月ずつ人馬を代り継いだ。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]真岡市大沼・松山町まつやまちよう

鬼怒川左岸に接する平坦地にあり、上大沼村に四方を囲まれている。近世初めは結城氏家臣水谷(のち常陸下館藩)領。元和九年(一六二三)「下館領青沼村」の検地帳(坂入浩一文書)があり、田は一一一石余で一〇町二反余、畑は九二石余で九町九反余、名請人は六人。この村高のうち、二三石余は寺内てらうち荘厳しようごん寺領の朱印地であったが、小橋こばし村が同寺領となったため、それに替わったという(明治二年「村明細帳」篠崎登良百文書)


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]マキノ町大沼

西近江路に沿い、北は中庄なかしよう村、南西は深清水ふかしみず(現今津町)。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)河上かわかみ庄のうちに大沼とあり、高三八六石余。慶長五年(一六〇〇)佐久間安政(元和二年以降信濃飯山藩)領、寛永一五年(一六三八)幕府領、慶安四年(一六五一)徳川綱重(寛文元年以降甲斐甲府藩)領となる。宝永二年(一七〇五)幕府領となり、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領。寛永石高帳に高四九五石余とあり、慶安高辻帳では田方二九三石余・畑方一五八石余・永荒四三石余。享保九年大和郡山領郷鑑によれば高四九五石余、反別四一町六反余、家数四四(うち本百姓二一・水呑二三)・人数一九六、馬一二・牛九。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]月夜野町大沼

上牧かみもく村の東、三峰みつみね山と板沢いたざわ山の鞍部に位置し、上牧村と東の上佐山かみさやま(現沼田市)を結ぶ石神いしがみ峠がある。村域の標高は七〇〇メートル以上。もと上牧村・下牧村と一村であったと伝える。寛文郷帳によると田方二石余・畑方二三石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では高一一六石余。宝永元年(一七〇四)の沼田領村々石高書上では高一六石余、反別は田一〇町一反余(不審だが史料のまま)・畑五町五反余。農間に炭焼稼を行った。嘉永六年(一八五三)の炭焼出入済口証文(須田文書)によると、上佐山村および下佐山村(現沼田市)を山元とする佐山村山と境を接しているため、当村百姓らが境界付近で炭焼を始めたことを発端に境相論となり、上佐山村の者たちが諸道具を奪い取る事件が起きている。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]朝日町大沼

大谷おおや川上流にあり、北東は大暮山おおぐれやま村。国指定名勝の大沼の浮島うきしま浮島稲荷神社(浮島明神)を中心とする門前集落。長享二年(一四八八)八月二二日の大沼別当盛広院宛の大江知広諸役免許状(大行院文書)によれば、「羽州寒江庄大沼浮嶋明神境内」の諸役が免除されている。もともと全村が浮島明神の支配地であったが、慶安二年(一六四九)高一二七石余の全村が徳川家光朱印状(大行院文書)によって同明神に安堵された。うち三二石余が大沼明神社(大行院)領、残りが三二坊分であった。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]東金市大沼

関下せきした村の東に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一三七石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では大沼組に属し、旗本島田領一三二石。元禄一一年(一六九八)から南町奉行組与力給知になったと考えられ、幕末まで同じ(「町奉行組与力給知両総村々石高覚」飯高家文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一四七石余、家数二五。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]榛原町勝間かつま

法士ほうじ村の西に位置し、勝間田かつまた川の中流左岸に立地する。天正五年(一五七七)二月九日の武田勝頼判物写(土佐国蠧簡集残篇)に「勝間田之内大沼之郷」とみえ、武田勝頼は小山こやま(現吉田町)の城将岡部長教に対し同郷の一二一貫文の地と陣夫一人などを与えることを約している。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高一三九石余。正保郷帳では田方一二一石余・畑方一七石余、旗本近藤領、ほかに四天王領五斗がある。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]谷田部町西大沼にしおおぬま

はら村の西、小野おの川東岸に位置。元和二年(一六一六)谷田部藩細川氏領となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高二八八・〇九五石。


大沼村
おおぬまむら

[現在地名]刈羽村上高かみたか

東は別山べつやま川対岸の曾地そち新田(現柏崎市)、北東に新屋敷あらやしき村、西は正明寺しようみようじ村、南は刈羽平野を隔てて与三よそう(現柏崎市)、北は上高町村に接する平坦地。元和二年(一六一六)の旗本安西氏の知行目録(西川家文書)に「外に三四石一斗余両村開発地」とあり、上高町村・下高町村の開発地が発展して大沼村となるが成立年代は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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