大照院(読み)だいしよういん

日本歴史地名大系 「大照院」の解説

大照院
だいしよういん

[現在地名]萩市大字椿

萩の市街地の南西にある面影おもかげ山の東麓にある。臨済宗南禅寺派。霊椿山と号し、本尊聖観音

「注進案」によれば、古くは月輪山観音かんのん寺と称し、桓武天皇勅願寺で本尊は千手観音であったという。この観音寺の開創については不詳であるが、その後、建武二年(一三三五)に没した義翁によって寺号を大椿山歓喜かんき寺と改められ、天台宗から臨済宗に改宗し、義翁が改めて開山となったという。義翁の像中の古銘に「建武二年乙亥十一月戊子朔廿二日庚午入滅、々后百十三年始而奉造立、于時文安四季丁卯五月廿二日記焉、卵塔建立文安第六竜集己巳秋八月一日、作事始之同廿九日造畢 則時奉安置者也」とみえる。

大照院
だいしよういん

[現在地名]境町伏木

伏木ふせぎの東端、鵠戸くぐいど沼の枝ヤトに挟まれた舌状台地先端に所在。教王山神護寺大照院と称し真言宗豊山派。本尊延命地蔵。大政院・大聖院とも記した。鎌倉街道と称する参道口に「教王山、大照院」と刻む石柱が建つ。寺伝によると開山は役行者とみられ、鎌倉時代の創建護摩堂鐘楼は鹿子造で、古い建築。安永四年(一七七五)の寺社差出帳(佐怒賀家文書)には「一真言宗教王山神護寺大政院、無本寺、御朱印高拾五石、境内は東西百四拾間・南北百廿間、御朱印地。鎮守天神宮高六尺・幅弐尺四方、熊野権現宮高四尺・幅壱尺五寸四方、右両社之母屋長三間・横弐間、護摩堂一宇長三間半・横三間、弥陀堂一宇長横三間四面、客殿長拾間・横六間、寝所長六間・横四間、茶間長四間・横三間、庫裏長八間・横五間、寮長六間・横弐間、仁王門長三間半・横三間、鐘楼長横壱間半四方、右不残境内ニ御座候」などと記され、数多くの建物が存在した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大照院」の意味・わかりやすい解説

大照院
だいしょういん

山口県萩(はぎ)市青海(おうみ)にある臨済(りんざい)宗南禅寺派の寺。山号は霊椿山(れいちんざん)。本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)。もとは天台宗に属し月輪山(がつりんざん)観音寺といい、桓武(かんむ)天皇の勅願寺であったが、正慶(しょうけい)・建武(けんむ)(1332~38)のころ鎌倉建長(けんちょう)寺の義翁(ぎおう)が大椿(だいちん)山歓喜(かんき)寺と改めて禅寺とした。1651年(慶安4)毛利秀就(もうりひでなり)をこの寺に葬り、京都南禅寺の言如円遵(ごんにょえんじゅん)を招請して開山とした。このとき秀就の法名にちなみ大照院と改めた。3代吉就(よしなり)のとき椿東椎原(ちんとうしいばら)に東光寺が建てられたので、以後歴代藩主は両寺に交互に葬られ、ともに毛利家の菩提(ぼだい)寺として栄えた。境内には本堂、庫裡(くり)、経蔵、鐘楼門、書院(いずれも国指定重要文化財)、秀就と2代綱広(つなひろ)以下偶数代の藩主と殉死者の墓が並ぶ。寺宝には木造赤童子立像(鎌倉時代、国指定重要文化財)がある。

菅沼 晃]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「大照院」の解説

大照院

山口県萩市にある臨済宗南禅寺派の寺院。萩藩主、毛利家の菩提寺ひとつで、初代と偶数代の藩主の墓がある。本堂、書院などは国の重要文化財に指定されている。

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