江戸幕府および藩などにみられる番方(武官)職制の一つ。幕府の大番の起源については諸説があり,そのうち1587年(天正15)に3組設置されたとする説がもっとも有力なものとみなされている。その翌年には3組が増設されて6組となったという。幕府開設後の1607年(慶長12)大御所家康の膝下駿府にまた3組が編成され,その後32年(寛永9)にさらに3組が取り立てられてつごう12組となり,以後これが定数となった。各組は大番頭1人(老中支配,菊間詰,諸大夫),大番組頭4人(頭支配,躑躅間詰,御目見以上),大番士50人(頭支配,御目見以上),与力10人(御目見以下,役上下,御抱場),同心20人(御目見以下,御抱場)で編成された。1723年(享保8)の制では,大番頭は役高5000石,大番組頭は600石,大番士は200石,与力は現米80石,同心は30俵二人扶持であり,役料は支給されず,そのかわりに在番中はそれぞれに役高の1倍の合力米が与えられた(ただし,1万石以上のものが大番頭になったときには1万石を支給する)。大番は将軍直属の常備軍団の中核をなすもので,戦時には旗本備の先鋒となり,平時には江戸城西の丸,二の丸などに勤番し,市中を巡回して非常の警戒にあたった(回り番という)。また1年交代で2組ずつ大坂城(8月交代),二条城(4月交代)に在番した。これを上方在番と呼んだ。このために,毎年大番頭が番士を率いて東海道を上下することを大番組往来といった。慶長・元和のころには伏見城にも在番し,また寛永のころには駿府城にも在番した。番方(大番,書院番,小姓組番,新番,小十人組など)の職制中もっとも古い由緒をもち,番士は家筋の良いものから選任され,大番入りを名誉なこととした。なお,大番の称は,御三家や越前松平家など親藩の番方職制中にもみられる。
執筆者:北原 章男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸幕府将軍の直轄軍団で、旗本で編成される。いわゆる番方(ばんかた)の一つ。江戸城の警備、大坂城、京都の二条城警衛の交代勤番、江戸の治安に関する職務に従事。また、大番衆のなかから諸国巡察に派遣される場合もあった。創置は徳川氏の関東入国前であるが、年代は未確定である。番方の制度ではいちばん古い。初め6組であったが、1635年(寛永12)には倍の12組となっている。1組の編成は、番頭(ばんがしら)1人、組頭4人、番衆50人、与力10騎、同心20人である。番衆の平均知行高(ちぎょうだか)は400石~500石であるが、これを幕府軍役量から考えて、大番の兵力は2万人余と推定される。番衆の出自は徳川氏の譜代(ふだい)、武田氏、後北条氏の旧臣が多い。知行地の範囲はだいたい関東に限定されている。
[煎本増夫]
元来は武家の軍制上の部隊名。江戸幕府においては五番方の一つ。戦時には旗本備の先鋒,平時には江戸城の警衛や幕府直轄城の在番を勤めた。役高5000石高の番頭1人,その下に600石高の組頭4人を含む番衆50人(200俵高)をもって1組とした。各組に与力10騎,同心20人が付属。開幕以前からあり,組数ははじめ3組,その後しだいにふえ,1632年(寛永9)には12組となり,以後これを定数とした。2組ずつ1年交代で大坂城と二条城に在番(上方在番)し,その2年の間に知行高の1倍の合力米を給された。初期には伏見城や駿府城にも在番している。江戸御番の組は,明き御殿の西丸や二の丸を警備した。大番は諸藩の番方職制にもある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…単に鎌倉番役ともいう。源頼朝の代から侍所の統轄の下に,関東番役または当番と称して御家人が交替で警固に当たる役はあったが,大番の名称が用いられるようになったのは1219年(承久1)藤原頼経下向後のことである。またその制度の整備は,21年の承久の乱後の京都大番役の制度の整備に対応するもので,25年(嘉禄1)には宿侍の制が整えられた。…
※「大番」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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