大草城跡(読み)おおくさじようあと

日本歴史地名大系 「大草城跡」の解説

大草城跡
おおくさじようあと

[現在地名]中川村大字大草

天竜川の東六〇〇メートルほどの所にある平山城で、東山麓から流れ出る深沢ふかざわ川の本流支流によって浸食された西向きの台地に地取りされている。東は堀を隔てて町家に続き、南北に通ずる道に沿って北町・中町南町町名が残り、北に三〇〇メートルほどの所に本城の隠居城ともいわれる高坂家屋敷がある。南は深沢川の谷を越えて曹洞宗常泉じようせん寺に通じ、中町から東へは桑原方面に通ずる道が分れている。

城の創建についてはつまびらかでないが宗良親王歌集「李花集」によると、南北朝の頃香坂高宗が大河原おおかわら鹿塩かしお地方(ともに現下伊那郡大鹿村)を支配していて、親王が大河原に滞在中一族こぞって奉仕した。

大草城跡
おおくさじようあと

[現在地名]知多市大草

大草の東南台地上にある。一色氏は鎌倉末頃から大野おおの庄を支配し、兄義直は宮山みややま(現常滑市金山)に拠ったが、弟義遠は大草に城を構えた。戦国期には織田信雄の重臣織田長益(有楽)は、この辺りに給知をもち、最初宮山城にあったが、水が乏しいので、大草城を本格的に構築し始めた。「石垣等の普請地形ことことく出来しける比」(尾陽雑記)、天正一二年(一五八四)長久手ながくて合戦後摂津国に給知替になったため、途中で廃城になった。

大草城跡
おおくさじようあと

[現在地名]小原村市場 市場前・城

「三河国西加茂郡誌」によればもと大草八幡社の山上にあり現在は畑となり、わずかに城礎が残るとある。延徳三年(一四九一)の大草八幡社棟札(小原村誌)には「奉勧請八幡宮武運長久家門安全 願主 当城主 鱸藤五郎親信謹書」とあり、鱸親信の居城であることを示す。文亀二年(一五〇二)に移った字しろ新城は現在市場いちば城跡ともよばれる。新城跡には本丸跡・櫓跡・土塁・石垣が残り面積は三〇アール。

大草城跡
おおくさじようあと

[現在地名]長久手町熊張 溝之杁

尾張志」に「西之島といふ地にあり、西北二方は山を垣とし、東南二方は深谷を境とす」とみえる平山城の跡で、規模は東西・南北ともに二〇間。本地ほんじ道が北に通じ、溝杁みぞのいり池からの用水は南流して香流かなれ川に注いでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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