中川村(読み)なかがわむら

日本歴史地名大系 「中川村」の解説

中川村
なかがわむら

[現在地名]大東町中川

鳥海とりのみ村の北東、興田おきた川上流部にある。磐井郡北端に位置し、北東は気仙けせん世田米せたまい(現住田町)。北の種山たねやま高原に続く山に東西を囲まれる。天正三年(一五七五)五月二日の葛西晴信知行宛行状(大東及川文書)に、及川駿河守(忠明)の本領として「中川村」がみえる。同一六年六月二日には浜田安房守の乱の際の陸奥本吉もとよし郡での軍功により、村内二千刈などが鳥畑主水に宛行われた(「葛西晴信知行宛行状」大原鳥畑文書)。寛永一九年(一六四二)の中川村検地帳(県立図書館蔵)によれば、田四〇町九反余・代四七貫七文、畑二三八町一反余・代五四貫七七八文、茶畑六畝余・代一五六文、名請人数一〇四。正保郷帳では田四四貫二三一文・畑四六貫二四〇文、ほかに新田四貫一四文があり、雑木山と注記される。「安永風土記」では田五五貫六四九文・畑五五貫七二三文(うち茶畑一六六文)、うち蔵入五一貫七一六文・給所五六貫六五六文。

中川村
なかがわむら

[現在地名]高岡市中川本町なかがわほんまち中川栄町なかがわさかえまち中川上町なかがわかみまち東中川町ひがしなかがわまち城東じようとう一―二丁目・大手町おおてまち高陵町こうりようまち広小路ひろこうじ・中川町・中川一丁目・中川園町なかがわそのまち東下関ひがししもぜき明園町あけぞのまち定塚町じようづかまち・中川

千保せんぼ川と庄川の中間、高岡町の東方に位置。かつてせき野と称されたこの地に川が東西に流れており、そのなかで村立てしたことから中川と名付けられた(越中志徴)。また入定にゆうじよう塚という周り三〇間ほど・高さ一間ほどの塚があり、僧侶・行者が生きながら自寂した所と伝える(同書)。慶長一〇年(一六〇五)検地が行われ毛付高三五五石余が打出された(「検地打渡状」木倉氏筆写史料)。正保郷帳では高三四七石余、田方二二町一反余・畑方一町余、新田高三八〇石余。承応元年(一六五二)瑞龍ずいりゆう寺御墓掃除人の扶持高として五石ほどが渡された(「高岡廻村々委細帳」折橋家文書)

中川村
なかがわむら

[現在地名]石和町中川

上平井かみひらい村の南、かね川左岸の扇状地扇端部に位置する。鎌倉街道沿いに集落がある。南は成田なりた(現御坂町)、東は国分こくぶ(現一宮町)。時宗二世真教の甲斐入国は永仁三年(一二九五)頃といわれるが、「一遍上人絵詞伝」によるとこのとき真教は中川に遊行し、念仏の心得を説いている。同絵詞伝は「中河におはしける時」の詠として「行すゑも今も昔もむなしともいひつくすべきことのはもなし」など和歌八首が掲げられており、ある期間ここを拠点として布教活動を展開したとみられる。近接する平井・二条にじようには時宗道場があり、この地域は甲斐の時宗の活動拠点の一つだったのであろう。「一蓮寺過去帳」にも応永年間(一三九四―一四二八)頃の連阿弥陀仏・令一房に中河の注記がある。大永二年(一五二二)三月、永昌えいしよう(現山梨市)菊隠瑞潭から諱道仁・字義田を与えられた際の法語のなかで、文武に秀でた武士と賞されている中河縫殿衛門尉は当地の居住者であった(菊隠録)

中川村
なかがわむら

[現在地名]中川郡中川町字中川・字ほまれ・字琴平ことひら・字豊里とよさと・字佐久さく・字神路かみじ・字富和とみわ・字安川やすかわ・字共和きようわ・字大和やまと・字板谷いたや・字大富おおとみ・字歌内うたない・字国府こくふ音威子府おといねつぷ村字音威子府など

明治三九年(一九〇六)より昭和三九年(一九六四)まで存続した村。明治二年八月の国郡画定により天塩国中川郡に属し、同三九年五月中川郡中川村が成立。同四五年四月中川村戸長役場が誉平ぼんぴらに開庁(市町村沿革台帳)。大正五年(一九一六)中川村より常盤ときわ(現音威子府村)が分村(市町村沿革台帳)。同八年四月二級町村制施行。昭和一六年二四の字を一四に改編。同三九年五月中川町と改称。「闢幽日記」にベンゲナヰ、ペンケナイなどとみえ、「右岸ノ地ヲベカンペトフト云フ。往々茅舎ヲ見ル。乃チ土人菱実ヲ採リ若クハ漁猟スルモノ投宿スル所ト云フ」とある(明治五年一〇月一三日条)

中川村
なかがわむら

[現在地名]伊集院町中川

土橋つちばし村の東、竹之山たけのやま村の北に位置し、神之かみの川中流左岸の標高約一七〇メートルの台地に立地。集落は丘陵中腹にある。土橋村から西俣にしまた(現郡山町)に至る道が通じ、その道沿いに集落がある。中河とも記す。

〔中世〕

建長五年(一二五三)五月の法橋栄尊申状(比志島文書)に「伊集院内中河名」とみえ、名主は紀姓伊集院時村であった。同申状で隣接地の満家みついえ院西俣名(現郡山町)名主栄尊(比志島氏祖)は、西俣名内の満家院郡司代吉元の畠地を時村が大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)領の中河名内だとして神威に募って押領していると守護所に訴えている。この相論は同八年一〇月以降も続いているが(年月日未詳「法橋栄尊申状」比志島文書)、結果は不明である。

中川村
なかがわむら

[現在地名]酒々井町中川・中央台ちゆうおうだい

印旛沼南岸の低地に位置し、南は酒々井しゆすい村、東は上岩橋かみいわはし村。成田道の間の宿で、中央を西流する中川に中川橋が架かる。安政三年(一八五六)の村堤普請帳(岡田家旧蔵文書)には字名成田往還なりたおうかんがみえる。また当地で成田道から通称宗吾そうご道が分岐した。近世初期に酒々井村の大台山おおだいやま(現東酒々井)から移住した草分六家が開発したと伝える(青木家文書)上岩橋村の慶長九年(一六〇四)八月の検地帳(上岩橋区有文書)に、小字として中川・中川さかいがみえる。「寛文朱印留」に村名がみえ、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領であったが、上知村高書抜(堀田家文書)によれば、天保一四年(一八四三)に印旛沼の干拓と幕府の上知令により数ヵ月の間幕府領となった。

中川村
なかがわむら

[現在地名]小田町中川

本川ほんがわ村の東、小田川を挟んで集落が発達し、南部の標高八〇〇メートルを超え面積四千六〇〇ヘクタールに及ぶ小田深山おだみやまを含む。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高三百五拾壱石八斗九升九合 中川村 雑木山有、茅山有、川有」とある。

「大野家四拾八家之次第」によると戦国時代、小田土州境にヶ城(「大洲旧記」には轆轤ろくろ城)という久万大除くまおおよけ城の枝城があって城主小倉丹後・宮田右京がいたことを記している。

中川村
なかがわむら

[現在地名]大宮市中川

中野なかの村の南西、大和田片柳おおわだかたやなぎ支台の南西端に位置する。西と南を見沼の低地に囲まれ、西は新右衛門しんえもん新田、南は上山口かみやまぐち新田。北方の中丸なかまる・中野両村の間に飛地大山おおやまがある。村内を浦和町から岩槻町へ通ずる道が通る。南部なんぶ領に属する(風土記稿)。田園簿では高三四石余(皆畑)で、旗本青木領、ほかに氷川明神(現中川神社)領一五石がある。以後同明神領を除き幕末まで青木領であった(国立史料館本元禄郷帳・改革組合取調書など)。元禄郷帳では高四九石余。

中川村
なかがわむら

[現在地名]北区中川〈奥山おくやま川登かわのぼり北山きたやま町・中山なかやま西にしたに西山にしやま東山ひがしやま水谷みずたに

高雄たかお(現右京区)の北、杉坂すぎさかの南で清滝きよたき川に沿って開かれた村。清滝川に沿って一条街道(周山街道)が村の中央を通る。村名は清滝川が村の中央を貫いていることによる(京都府地誌)。中世はうめはた郷の一部とされ、梅ヶ畑供御人として諸役免除を受け、天正元年(一五七三)九月二三日付の次のような正親町天皇綸旨を伝える(中川共有文書)

中川村
なかがわむら

[現在地名]山北町中川

北から西に丹沢たんざわ山塊の大室おおむろ山・加入道がにゆうどう山などの峰が連なり、丹沢山塊より発する中川川が中央を流れ、北は犬越いぬごえ路を越えて津久井つくい郡・甲斐国、東は玄倉くろくら村、南は神縄かみなわ村と接する。玄倉村・世付よづく村と併せて新山しんざん三ヵ村とよぶ。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉掟書(県史三)に「中川」とある。

近世は小田原藩領。正保国絵図に「川村ノ内中川」、元禄国絵図に「川村中川村」と載せ、古くは川村かわむら郷に属した。

中川村
なかがわむら

[現在地名]岡山市中川町・益野町ますのちよう可知かち二―四丁目・可知

松崎まつざき新田村の西、百間ひやつけん川左岸に位置する村で、倉安くらやす川が西流する。西部には正木古城山があり、宇喜多氏の家臣岡信濃・岡豊前の居城と伝える(備前記)。枝村の益野は本村南方地先の干潟を干拓した新田で、古くは中川新田と称した(吉備温故秘録)。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)吉富よしとみ庄に西中川村とあり、寛永備前国絵図では高一千三五一石余、正保郷帳には水損所と注記がある。

中川村
なかがわむら

[現在地名]羽咋市中川町

千代町ちよまち村の南、碁石ごいしヶ峰西麓丘陵に立地。内浦街道に沿う街村。中河とも書く。永光ようこう寺開基の瑩山紹瑾に帰依し、文保二年(一三一八)寺地を寄進した平氏女(黙譜祖忍)の父酒匂頼親および兄頼基が中河の地頭であったと伝える(洞谷記)。明応一〇年(一五〇一)の友永職反米納日記(気多神社文書)に「中川ひやうへ五郎」とみえる。大永六年(一五二六)一〇月写の気多社年貢米銭納帳(同文書)に「九百廿文 中川村三郎九郎」とあり、気多社領であった。

川村
なかあしかわむら

[現在地名]芦川村中芦川

上芦川村の西、御坂みさか山地を西流する芦川沿いに位置し、南におにヶ岳がそびえ、北に春日かすが山がある。慶長古高帳に中芦河とみえ高五三石余、幕府領。ほかに大明神(現白髭神社)領一石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数八九・人数三三三、馬五(甲斐国志)。上芦川村の口留番所の番役を同村とともに勤めるために諸役が免除されていた(「上芦川村明細帳」上芦川区有文書)。貞享元年(一六八四)国中の小黒坂くになかのこぐろさか村・小山こやま村・前間田まえまだ村・大坪おおつぼ村・三椚みつくぬぎ村・石橋いしばし(現境川村)米倉よねくら(現八代町)の七ヵ村との間で中芦川山の入会山論があり、翌年の江戸奉行所の裁許は峰通りを境として中芦川山への入会を否決した(「中芦川村山論裁許状」岡義博家文書)

中川村
なかがわむら

[現在地名]金津町中川

きた村の南、加越山地から流れ出る清滝きよたき川と熊坂くまさか川に挟まれた地にある。権世市野々ごんぜいちのの村から風谷かざたに峠を越えて加賀国風谷村(現石川県江沼郡山中町)に至る道に面していた。長禄二年(一四五八)の越前国長崎称念寺光明院寺領塔頭領惣目録(称念寺文書)中に「中河保勝蓮円国次名内壱町」「同行貞一町」の記載があり、古くは中河保に属していたと推測される。

慶長三年(一五九八)の検地帳の末尾の部分を記録した越前丸岡領水帳写(吉沢家文書)に当村も記載されている。

中川村
なかがわむら

[現在地名]新井市中川・大崎おおさき

北国街道沿いに石塚いしづか村・新井宿・稲塚いなづか新田と接する。矢代やしろ川と渋江しぶえ川から用水堰などで灌漑される。建仁三年(一二〇三)一〇月五日の関東下知状案(小代文書)によれば、小代行平に「越後国中河保地頭職」が与えられている。応永一八年(一四一一)八月一九日の居多神社社領注文(居多神社文書)に「頸城郡 上郷内 三段大十六歩 中河得安給田」とある。

中川村
なかがわむら

面積:七七・二四平方キロ

上伊那郡の最南端にあり、屈曲蛇行して南流する天竜川により竜東南向みなかた地区と竜西片桐かたぎり地区に画然と二分されている。天竜川東岸の北部は飯島いいじま町・駒ヶ根こまがね市に接し、東は下伊那郡大鹿おおしか村に、南部は小渋こしぶ川を隔てて下伊那郡松川まつかわ町と境している。南北に走る伊那山脈中にあり、平坦地が乏しく谷や洞が多く小集落が散在している。天竜川西岸は北は飯島町、南は下伊那郡松川町に接し、西には念丈ねんじよう岳を控える。地勢は天竜川によってできた河岸段丘と段丘崖下の氾濫原で、天竜川に注ぐ大小の支流は段丘を浸食して深い谷をつくり天井川となっている。天竜川沿岸は標高五〇〇メートル以下で、気候は郡下一温暖である。

中川村
なかがわむら

[現在地名]長島町中川

長島輪中にあり、北は西川にしがわ村、南は高座こうざ村に連なる。「長島古今図考」に載せる江戸初期の長島古絵図によれば、東川ひがしがわ(小嶋)村・ママ(間々)村と一曲輪であった。

近世は長島藩領で、文政七年(一八二四)家数六六、人数三三七。明治一六年(一八八三)家数三九、人数二〇五(桑名郡志)八剣やつるぎ社は天文二三年(一五五四)熱田神宮より勧請したもので(長島細布)、長島最古の八剣社で祭神草薙神剣。寺院には宝林ほうりん(真宗大谷派)がある。

中川村
なかがわむら

[現在地名]黒石市中川

黒石城下東南方にあり、弘前藩猿賀組に属した。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「中川」とある。天正一三年(一五八五)宇杭野うぐいの合戦の結果、中川は浅瀬石あせいし城主千徳氏の所領となり、慶長二年(一五九七)の浅瀬石城落城までその状態が続いた(津軽一統志)。慶安年間(一六四八―五二)の絵図(黒石地方誌)に「中河 二六軒」とある。

中川村
なかがわむら

[現在地名]生野区中川東なかがわひがし一―二丁目・中川二―五丁目・新今里しんいまざと三―五丁目・同七丁目など

東成ひがしなり郡に属し、片江かたえ村の南にある。平坦で低地が多く、古来より洪水の被害を被ったという。かつては沼沢地であったと思われ、字名にも沢ノ端などが残る。村名は中ノ川という細流に由来するという(東成郡誌)。平野川の支流が村内を南から北へ流れており、中ノ川はこれにあたると思われる。天正二〇年(一五九二)三月二三日の豊臣秀吉朱印状(足守木下家文書)に「中川」とみえ高四九〇石余、秀吉の室北政所領。文禄四年(一五九五)正月一一日の豊臣秀吉朱印状(同文書)によるとかけ郡に属し、先高四九〇石余・出米九二石余。

中川村
なかがわむら

[現在地名]酒田市豊川とよかわ

苅屋かりや村の西、荒瀬川の下流左岸に位置し、地内を井皿いざら溝が西流する。中河村とも記した。慶長一六年(一六一一)の検地帳(中川区有文書)によると田六千一〇七束刈、米五四石余、畠大豆三斗八升余、居屋敷九、うち家七・明屋敷二、漆木一四本、居繰役鮭三。名請人は七人。字名に片田・志ら山田・大山田・あけ口・関免・関添・谷地田・はつ田・柳の町・水窪・古田・橋本・さう田がある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に中河村高一三六石余、中川村一石余が載る。寛永元年庄内高辻帳では高一八七石余。

中川村
なかがわむら

[現在地名]燕市中川

四ッ屋よつや村の南にあり、東をなかくち川が流れる。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に高七七石余とある。同九年幕府領となり、正保国絵図は一二七石余。慶安二年(一六四九)村上藩領となり、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳の村高は九三石九斗余。宝暦六年(一七五六)の燕組村々高反別之覚(小柳家文書)によれば村高三三一石(反別三二町四反)、本田高一〇〇石、うち田七六石七斗(五町七反)・畑二三石八斗(四町四反)、見取新田一四石五斗(一町一反)、新田二一一石八斗、うち田一九四石七斗(一五町八反)・畑一七石一斗(四町五反)、辰明新田二石八斗(二反)・午明新畑四斗(一反)、寛保三年(一七四三)の見取場四反(反一斗四升取)、野手八斗。

中川村
なかのかわむら

[現在地名]広田村中野川なかのかわ

中ノ川村、中野川村とも書く。田渡たど川支流の中野川沿いに開けた村で、惣津そうづ村の西北に位置する。浮穴うけな広奴田ひろぬた大田山おおたやまのうちで、江戸時代を通じ大洲藩領。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「中ノ川村 茅山有」、高一三八石八斗六升一合、うち田五七石三升八合、畠八一石八斗二升三合と記す。

中川村
なかのかわむら

[現在地名]菊間町中川

高縄たかなわ半島の西部、菊間きくま川の最上流部に位置する山間の村。南にいわもり城、西に長者森ちようじやがもり城の戦国期の城砦跡がある。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)野間のま郡の項に「中野川村 芝山有、林少有」とみえ、村高は一二七石六斗四升六合である。「野間郡手鑑」によると、享保末年から元文(一七三六―四一)頃には田一六町七反余、畑一四町八反、新田畑四反余、家数四七軒、人数二〇八人であり、嘉永三年(一八五〇)頃でも田畑戸数などにほとんど変化がない。

中川村
なかのかわむら

[現在地名]臼杵市岳谷たけや 中の川

かよい村の北東に位置し、末広すえひろ川の支流中ノ川川の中流域右岸に立地する。北は松嶽まつがたけ村。中ノ河・中野川などとも記された(「豊後国志」など)。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に末広村組のうちとして村名がみえ、高一五五石余、うち七一石余は稲葉通孝領であった。また同帳は村役人に四郎右衛門・又右衛門・藤二郎を記す。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)でも末広村組に所属、のち末広組に属した(万用集)

中川村
なかがわむら

[現在地名]行橋市中川

上検地かみけんじ村の南に位置し、長峡ながお川が村の西端を、井尻いじり川が東端をそれぞれ北流する。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高二七〇石余、家数二八・人数五二(うち百姓五・名子三)、牛八・馬三。郷村高帳では高二七八石余、うち新田高七石余。

中川村
なかがわむら

[現在地名]六日町中川

山谷やまや村の東、南は中川新田、東は京岡きようおか村、北は五十沢いかさわ川を挟んでみや村。正保国絵図に村名がみえ、高六〇石余。天和三年郷帳では高一二五石七斗余。宝暦五年(一七五五)村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田六町五反余・畑六町一反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中川村」の意味・わかりやすい解説

中川〔村〕
なかがわ

長野県南部,伊那盆地の中央部にある村。 1958年南向 (みなかた) 村と片桐村が合体して成立。村名は村の中央を天竜川が貫いていることと,古くは天竜川を「天の中川」といったことからつけられた。天竜川の中流域を占め,河岸段丘上では米作のほかナシ,リンゴを栽培。東部の伊那山地西斜面では野菜の施設栽培が行われる。南端の小渋ダム付近は紅葉の名所で小渋湖温泉があり,天竜小渋水系県立自然公園に属する。 JR飯田線,国道 153号線が通る。面積 77.05km2。人口 4651(2020)。

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事典 日本の地域遺産 「中川村」の解説

中川村

(長野県上伊那郡中川村)
日本で最も美しい村」指定の地域遺産。
中川村は、長野県の南部・上伊那郡の最南に位置する典型的な農山村。天竜川を挟んで、竜東南向地区と竜西片桐地区に分かれる。竜東地区は傾斜地が多く果樹栽培が盛んで、竜西地区は平坦な農地が多く比較的規模の大きな農業経営が行われる

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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