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大鳥圭介 おおとり けいすけ

美術人名辞典の解説

大鳥圭介

幕末・明治の武士・外交官播磨生。本姓は小林、号は如楓、名は純彰。閑谷塾で学び、のち緒方洪庵の門に入る。橋本綱三郎・黒田清隆らと親交する。慶応2年(1866)徳川氏直臣となる。明治28年(1895)勲一等、瑞宝章を授けられる。華族・男爵・内国勧業博覧会審査総長。明治44年(1911)歿、80才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

大鳥圭介

おおとり・けいすけ。1832~1911。江戸時代から明治時代の洋学者、軍人。幕府陸軍伝習隊を率いて官軍と戦い、敗れる。のち明治政府に取り立てられ、英、米へ留学し、鉱工業や美術・建築を視撮後に工部大学校長兼工作局長などを務め、産業振興に貢献。学習院院長などとして教育にも功績を残した。

(2012-06-30 朝日新聞 朝刊 播磨 1地方)

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百科事典マイペディアの解説

大鳥圭介【おおとりけいすけ】

江戸末期〜明治初期の軍人,政治家,外交官。播磨(はりま)赤穂の医師の家に生まれ,緒方洪庵の適々斎塾を経て,江川太郎左衛門に師事。江川の推薦を得て幕臣となり,戊辰戦争では榎本武揚に従う。
→関連項目五稜郭の戦適塾

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大鳥圭介 おおとり-けいすけ

1833-1911 幕末-明治時代の武士,外交官。
天保(てんぽう)4年2月25日生まれ。江戸の江川塾で兵学をまなび,幕府歩兵奉行となる。戊辰(ぼしん)戦争では榎本武揚(たけあき)にしたがい五稜郭で降伏。のち清(しん)(中国)公使となり,明治26年朝鮮駐在公使をかねて日清戦争の発端となる外交工作をおこなった。枢密顧問官。明治44年6月15日死去。79歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。本姓は小林。名は純彰。著作に「幕末実戦史」など。
【格言など】死のうと思えば,いつでも死ねる。今度は一番降参としゃれてみてはどうか(五稜郭落城に臨んで)

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朝日日本歴史人物事典の解説

大鳥圭介

没年:明治44.6.15(1911)
生年:天保4.2.25(1833.4.14)
幕末の軍人,明治の官僚。名は純彰。如楓と号し,圭介は通称。播磨国(兵庫県)赤穂郡赤松村の医師小林直輔の子。岡山藩の閑谷黌で漢学を修め,嘉永5(1852)年,20歳で大坂の緒方洪庵に蘭学を学ぶ。安政1(1854)年,蘭方医坪井忠益 に入門,同4年伊豆韮山代官江川英敏塾で西洋兵学を修め,その推挙で江戸幕府鉄砲方付蘭書翻訳方出役となり,その後元治1(1864)年歩兵差図役勤方を拝命。のち同頭取,歩兵頭,歩兵奉行と幕府陸軍幹部の道を進む。鳥羽・伏見の戦(1868)で幕府軍が敗れて以降,主戦論の急先峰として江戸開城に異を唱え,旧幕兵を率いて関東,東北を転戦。榎本武揚軍と合流し,箱館の「蝦夷共和国」では陸軍奉行に推される。しかし,明治2(1869)年5月維新政府軍の総攻撃を受けて降伏(箱館戦争)。2年半の入獄を経,開拓使,大蔵少丞,工部技監,学習院長,特命全権清国駐箚公使,枢密顧問官を歴任。清国公使時には朝鮮駐箚公使をも兼ね,東学党の乱鎮圧に派遣された清国軍の撤兵と朝鮮の内政改革への日本の介入を主張。日清戦争への端を開いた。

(岩下哲典)

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世界大百科事典 第2版の解説

おおとりけいすけ【大鳥圭介】

1833‐1911(天保4‐明治44)
幕末の軍人,明治の政治家。播州赤穂の医師の子で1866年(慶応2)幕臣となった。諱(いみな)は純章,号は如風。漢学を備前の閑谷黌,蘭学を大坂の適塾に学び,さらに江戸に出て江川英敏の塾に身を寄せて幕府に推薦された。歩兵差図役頭取,歩兵頭と陸軍幹部の道を歩む。江戸開城を不満として幕兵を率いて脱走,宇都宮,会津に転戦,榎本武揚と合流して北海道に至った(五稜郭の戦)。69年(明治2)降伏入獄,72年出獄すると開拓使御用掛,大蔵小丞,陸軍省出仕,工部省出仕等を経て82年工部大学長に就任した。

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大辞林 第三版の解説

おおとりけいすけ【大鳥圭介】

1833~1911) 政治家。播磨の人。蘭学・兵学を学び、幕臣となる。戊辰ぼしん戦争の際、榎本武揚らと箱館五稜郭にたてこもって抗戦。のち明治政府に仕え、清国・朝鮮公使、枢密顧問官などを歴任。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大鳥圭介
おおとりけいすけ
(1833―1911)

幕末から明治時代の外交官。天保(てんぽう)4年2月25日、播磨国(はりまのくに)(兵庫県)赤穂(あこう)の医師の長男に生まれる。岡山閑谷黌(しずたにこう)、大坂緒方洪庵(おがたこうあん)の適々斎塾(てきてきさいじゅく)に学ぶ。1854年(安政1)江戸に出て坪井忠益に入門、1857年江川英敏(ひでとし)(英龍(ひでたつ)の三男)の塾に入る。また幕府軍事顧問のフランス人ブリュネより兵学を学んだ。1866年(慶応2)開成所洋学教授として幕府に登用され、ついで歩兵頭並に就任して幕兵の洋式訓練にあたった。1868年(慶応4)鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦い後江戸にあって主戦論を主張、江戸開城を機に配下とともに脱走し、北関東、会津方面で抗戦、ついで榎本武揚(えのもとたけあき)とともに箱館(はこだて)で戦った。翌1869年(明治2)5月降伏、1872年まで獄中。出獄後政府に迎えられ、外債交渉で渡米、工部大学校長、元老院議官、1886年学習院院長を歴任したあと、1889年特命全権公使として清(しん)国に在勤、以後1894年まで対韓・清国との外交折衝を担当した。男爵。明治44年6月15日没。[佐々木克]
『『幕末維新史料叢書9 幕末実戦史』(1969・新人物往来社) ▽山崎有信著『大鳥圭介伝』(2010・マツノ書店)』

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世界大百科事典内の大鳥圭介の言及

【五稜郭の戦】より

…新政府は蝦夷地に箱館府を設置し,松前藩などがこの警備に当たった。一方,旧幕府海軍副総裁榎本武揚は,1868年(明治1)8月19日,旧幕府軍艦8隻で旧幕臣やフランス人士官らとともに品川沖を脱し,途中仙台で前老中板倉勝静,同小笠原長行,前歩兵奉行大鳥圭介らを加え,総勢2800余人を乗せ,10月20日蝦夷地鷲ノ木(現,茅部郡森町)に上陸した。ついで箱館府知事清水谷公考を青森へ敗走させ,松前城を陥れ,藩主松前徳広を津軽へ逃走させた。…

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