幕末から明治時代の外交官。天保(てんぽう)4年2月25日、播磨国(はりまのくに)(兵庫県)赤穂(あこう)の医師の長男に生まれる。岡山閑谷黌(しずたにこう)、大坂緒方洪庵(おがたこうあん)の適々斎塾(てきてきさいじゅく)に学ぶ。1854年(安政1)江戸に出て坪井忠益に入門、1857年江川英敏(ひでとし)(英龍(ひでたつ)の三男)の塾に入る。また幕府軍事顧問のフランス人ブリュネより兵学を学んだ。1866年(慶応2)開成所洋学教授として幕府に登用され、ついで歩兵頭並に就任して幕兵の洋式訓練にあたった。1868年(慶応4)鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦い後江戸にあって主戦論を主張、江戸開城を機に配下とともに脱走し、北関東、会津方面で抗戦、ついで榎本武揚(えのもとたけあき)とともに箱館(はこだて)で戦った。翌1869年(明治2)5月降伏、1872年まで獄中。出獄後政府に迎えられ、外債交渉で渡米、工部大学校長、元老院議官、1886年学習院院長を歴任したあと、1889年特命全権公使として清(しん)国に在勤、以後1894年まで対韓・清国との外交折衝を担当した。男爵。明治44年6月15日没。
[佐々木克]
『『幕末維新史料叢書9 幕末実戦史』(1969・新人物往来社)』▽『山崎有信著『大鳥圭介伝』(2010・マツノ書店)』
幕末の軍人,明治の政治家。播州赤穂の医師の子で1866年(慶応2)幕臣となった。諱(いみな)は純章,号は如風。漢学を備前の閑谷黌,蘭学を大坂の適塾に学び,さらに江戸に出て江川英敏の塾に身を寄せて幕府に推薦された。歩兵差図役頭取,歩兵頭と陸軍幹部の道を歩む。江戸開城を不満として幕兵を率いて脱走,宇都宮,会津に転戦,榎本武揚と合流して北海道に至った(五稜郭の戦)。69年(明治2)降伏入獄,72年出獄すると開拓使御用掛,大蔵小丞,陸軍省出仕,工部省出仕等を経て82年工部大学長に就任した。学習院長,華族女学校長も務める。89年特命全権公使として清国に駐在,93年朝鮮駐在公使を兼ねた。日清戦争の始まる前,病気帰国中だった圭介は命を帯びて朝鮮に急行,内政改革要求をつきつけて王宮に兵を入れ,開戦の口実をつくる役割を果たした。戦争が始まると任を解かれ帰国して枢密顧問官,1900年男爵となった。
執筆者:松浦 玲
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(岩下哲典)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1833.2.25~1911.6.15
幕末期の幕臣,明治期の官僚政治家。播磨国生れ。幕府軍の近代化に従事し歩兵奉行となる。江戸開城に反対して関東・奥羽を転戦,蝦夷島政府陸軍奉行となるが五稜郭で降伏。出獄後,陸軍省をへて工部省で累進,1882年(明治15)元老院議官。この前後,工部大学校校長・学習院院長を務める。89年清国公使,94年朝鮮公使を兼務,日清開戦外交の一翼を担った。枢密顧問官。男爵。
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…新政府は蝦夷地に箱館府を設置し,松前藩などがこの警備に当たった。一方,旧幕府海軍副総裁榎本武揚は,1868年(明治1)8月19日,旧幕府軍艦8隻で旧幕臣やフランス人士官らとともに品川沖を脱し,途中仙台で前老中板倉勝静,同小笠原長行,前歩兵奉行大鳥圭介らを加え,総勢2800余人を乗せ,10月20日蝦夷地鷲ノ木(現,茅部郡森町)に上陸した。ついで箱館府知事清水谷公考を青森へ敗走させ,松前城を陥れ,藩主松前徳広を津軽へ逃走させた。…
※「大鳥圭介」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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