天安門事件(第2次)(読み)てんあんもんじけん/だい2じてんあんもんじけん/だいにじてんあんもんじけん

知恵蔵 「天安門事件(第2次)」の解説

天安門事件(第2次)

1989年6月3日深夜から4日未明にかけ、天安門広場で民主化運動を進めていた学生・市民に向け、人民解放軍が無差別に発砲した流血悲劇。犠牲者の正確な数字は不明だが、学生・市民の側の死者は約3700人、負傷者は約1万人との推定もあった。中国の指導者たちは、内外から指弾される道を自ら選ぶことになったが、「狂気に走った暴徒たちは解放軍将兵を襲い、軍用車に放火した」と事実をねじ曲げて宣伝した。同年4月中旬の胡耀邦(フー・ヤオパン)元総書記の死を悼む形で起こった一連の民主化要求の背景には、トウ小平(トン・シアオピン)の超法規的君臨、つまり人治という現状への不満があり、学生や知識人らは法治の要求を高らかに掲げた。市民がこのように近代的な政治意識に基づいた民主化運動を進めたのは、建国以来、初めてである。こうした運動の盛り上がりへの危機感が、同年5月20日の北京市への戒厳令布告、さらに「反革命暴乱」平定のための武力弾圧につながった。事件後の6月24日の党中央委員会(第13期4中全会)では、「反革命暴乱」に加担したとして趙紫陽(チャオ・ツーヤン)総書記を「反革命罪」で断罪して解任江沢民(チアン・ツォーミン)新総書記を選任した。西側諸国は中国への経済制裁実行、中国指導部の国際的孤立化が進み、最大の輸出市場である香港も激しい衝撃を受けて動揺した。中国は人権抑圧国家だとのイメージが国際的に広がり、「改革・開放」を唱える中国の前途には、大きな暗雲が立ちこめることとなった。この事件を「反革命暴乱」と規定した評価は、「歴史的結論」だとして今日でも踏襲されている。趙紫陽は軟禁状態のまま2005年1月に死去した。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2007年)

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