足利義政が応仁・文明の乱後,東山山荘(慈照寺銀閣はその遺構)を営み東山殿と称されたのにちなみ,15世紀後半期の文化をいう。足利義満の北山山荘(鹿苑寺金閣はその遺構)にちなむ,室町前期の北山文化に対する呼称であるが,義政の芸術的な資質に対する評価から,この時代を文化的な高揚期とみなす見方は早くからあった。室町幕府の歴代将軍によって収集された唐物(からもの)類が義政個人の功に帰せられ,〈東山御物(ひがしやまごもつ)〉と称されたのはその一例で,こうした見方は遅くとも16世紀の後半には生まれている。
この時期,政治的,社会的に無力となった公家は,かつての文化的な創造性を失い,和歌をはじめ文芸や芸能を家業として伝えるにすぎなかった。形式的な伝授の典型である古今伝授(こきんでんじゆ)も,東常縁(とうのつねより)から宗祇へ,宗祇から肖柏や三条西実隆らになされているように,この時期に本格化した。しかし《古今集》や《伊勢物語》《源氏物語》などの古典に対する関心は強く,書写・校合だけでなく,一条兼良(かねら)や実隆らについて講釈を聴聞したり,同好者による研究会もしばしば行われており,そうしたおりの抄物(しようもの)(講義録)や聞書(ききがき)が,のちに江戸時代における国学隆盛の素地となった点で見逃せない。また地方武士の間には,上洛の際,実隆から古典の知識を習得する者も少なくなく,領国文化の発展の要因となったが,これは応仁・文明の乱で公家が地方へ下ったことでいっそう促進された。この時期における文化の地方へのひろがりということでは,旅わたらいに生涯を送った宗祇,宗長ら連歌師たちの役割も大きい。また地方生活を送るなかで画業を完成させたものに雪舟がいる。
五山の僧侶の間にひろまった五山文学の世界では,景徐周麟,横川景三(おうせんけいざん)らが詩文で知られたが,この時期には詩文よりも経史に比重が移り,この分野では九州へ下り宋学を講じた桂庵玄樹の名が知られる。将軍家の保護を得た五山にかわり,林下の大徳寺が社会各層の帰依を得て隆盛に向かうのも,応仁・文明の乱前後からで,《狂雲集》を著した一休は,後世にも大きな影響を及ぼした。
さて武家社会では,将軍家を中心に,諸分野にわたる芸能者がこれに近侍奉仕したのが特徴で,猿楽の音阿弥や作庭の善阿弥・小四郎・又四郎3代,同朋衆では唐物奉行に当たった能阿弥・芸阿弥・相阿弥3代,香,茶の千阿弥,立花(たてはな)の立阿弥などの名が知られる。このうち同朋衆は,義持,義教を経て義政の時代に最も活躍するが,とくに唐物同朋は将軍家による唐物収集を担当し,目利(めきき),保管,表装あるいは唐物唐絵をもってする座敷飾に当たった。これはこの時期における書院座敷(書院造)の発達に対応するもので,同朋衆が経験的につくり出した室礼の規式の集大成ともいうべき《君台観左右帳記(くんだいかんそうちようき)》は,その後における日本人の生活美学の母体となったといっても過言ではない。文化史上における義政の評価も,本書の存在,あるいはそれに関与した同朋衆の活躍に負うところが大きい。先の三阿弥のように,同朋衆のなかには,その職掌上絵をよくして図工と称され,連歌の宗匠と呼ばれた者もいた。東山文化において同朋衆の役割はきわめて大きい。
東山文化には,このように生活文化の色彩が濃厚であるが,その中心をなすのが立花と茶の湯で,都市の発達がその要因をなしている。花の世界では六角堂頂法寺の池坊(いけのぼう)専応が現れ,以後池坊がこの分野を領導する。《花伝書》がつくられるようになるのも,応仁・文明の乱前後のことである。茶では村田珠光が登場し,書院茶の湯の略体化を進め,枯淡の美を説いたのが注目される。とくに《心の文》のなかで〈和漢のさかいを紛らかすこと肝要〉と述べ,これまでの唐物一辺倒に対して,備前物,信楽物などの国物(国焼)のもつ素朴な美しさに関心を寄せている。これには〈ひえやせる〉〈ひえかれる〉といった枯淡の美を唱えた連歌師心敬の歌論の影響が大きいが,こうした傾向は文芸,芸能の各分野にわたっており,この時期はいわば文芸理念の形成期であった。義政の営んだ東求堂(とうぐどう)同仁斎が四畳半という小書院であったのも,こののち16世紀に展開する四畳半志向のさきがけをなすもので,書院茶の湯から草庵茶の湯への過渡期の産物といえる。その意味で東山時代の文化は,室町(北山)文化と戦国(天文)文化の間に位置する,過渡期の性格をもつ文化であったことにも留意する必要がある。
執筆者:村井 康彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
室町幕府3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の時代の文化が、義満の北山(きたやま)山荘(鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく))を中心にして栄えたので北山文化とよぶのに対して、室町時代の中期、8代将軍足利義政(よしまさ)(在位1443~73)の時代に義政が営んだ東山山荘(慈照寺銀閣(じしょうじぎんかく))を中心にして生み出された文化を、このように呼び習わしている。
東山文化の時代は下剋上(げこくじょう)の時代にあたっており、新興勢力がもたらす新しい風潮と、旧来の伝統的な文化とが渾然(こんぜん)と融合して独特の文化を生み出すとともに、現代の日本人の生活様式にまでも深い刻印を残した。東山文化の創造の中心をなしたのは義政という個性的な武家貴族ではあったが、彼の周辺に集まっていた五山(ござん)派の禅僧や、公家(くげ)、武家(守護大名とその家臣たち)・同朋衆(どうぼうしゅう)(阿弥(あみ)号をもち、多くは出身地や家柄などが不明でありながらも、特定の技芸に際だった才能を認められて抜擢(ばってき)され、義政のそば近くに奉仕していた人たち)の活躍が目だった。さらには世阿弥(ぜあみ)によって大成された能(のう)(猿楽(さるがく)能)をいっそう発展させた能芸者たちや、当時の社会で身分的には卑賤(ひせん)とされながらも作庭の技芸において優れ、それによって高い評価を得た山水河原者(せんずいかわらもの)など、さまざまな人々が関与していた。そのうえ、商工業の発達につれて台頭してきた酒屋・土倉(どそう)などの高利貸業者をはじめとする町衆(ちょうしゅう)の経済力が大きく働いた。したがって東山文化は、平安朝以来の伝統的な公家文化、鎌倉時代以来の武家文化や禅宗文化、そしてこの時代に顕著に現れてきた庶民文化が互いに交流しあい、さらには日明(にちみん)貿易で輸入された唐物(からもの)とよばれる美術工芸品の数々が珍重されることで成り立っていた。義政は、きわめて個性的な感覚・美意識によって、いろいろな階級・身分の人々の好みのなかから優れた要素を選び抜き、それを統合しようとした。晩年に京都の東山の山麓(さんろく)に造営した東山山荘(東山殿(ひがしやまどの))は未完成のままに終わったが、彼の理想を建築、庭園その他万般にわたって集中的に表現したものとみられている。
東山文化の特徴となると多岐にわたるが、その特質については、一つには禅宗思想の影響が広く見受けられる点、二つには生活文化としての要素が強くうかがわれる点が重視されており、これらは水墨画、書院造、庭園、能、茶(茶の湯)、立花(りっか)(いけ花)などの諸分野において確かめられる。また、東山文化は、幅広い階層の人々を文化的・経済的基盤としていたことが大きく働いて、しだいに守護大名、戦国大名を通じて全国各地に広まり、やがては地域社会の生活文化のなかに深く根づいて、日本人に独特な生活様式や文化的な好みを定型化してきた。
[横井 清]
『芳賀幸四郎著『東山文化』(1962・塙書房)』▽『林屋辰三郎著「東山文化」(『岩波講座 日本歴史 中世3』所収・1963・岩波書店)』
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室町中期に形成された文化。足利義政が京都東山に営んだ山荘(現,銀閣寺)をシンボルとするので,この呼称がある。生活に根ざした文化として簡素さを旨とし,書院造の住宅,侘茶(わびちゃ)の誕生,立花(たてはな)の様式化など,現在の伝統的日本文化の源流がはぐくまれた。雪舟による水墨画の大成,禅宗の精神に基礎をおく枯山水(かれさんすい)の庭園の盛行などに特徴づけられる。室町前期の北山文化と対をなす。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…初期は,南北朝時代にあたり,室町美術の形成期であり,中期は,足利義満の北山文化に集約される室町美術の興隆期である。後期は,足利義政の東山文化の時代から戦国の動乱が深まり,中世の終末にいたる室町美術の成熟・変成期である。
【初期】
南北朝時代の美術は,鎌倉時代後半期にみられた新しい諸傾向を引き継いで,それをさらに明確化する時期といえる。…
※「東山文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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