平安中期の陸奥国の豪族。父は忠良。はじめ頼良といったが,陸奥守源頼義の名と同じであることをはばかって,頼時と改名した。父祖以来〈奥六郡の司〉(岩手県中央部の胆沢,江刺,和賀,稗貫,紫波,岩手の6郡の郡司)として蝦夷を統率する地位にあった。早くから陸奥国司と対立し,永承年間(1046-53)には陸奥守藤原登任(たかとう),秋田城介平重成の連合軍と鬼切部(おにきりべ)(宮城県大崎市の旧鳴子町鬼首(おにこうべ))において戦い,勝利を収めた。1056年に子息の貞任が陸奥権守藤原説貞の子光貞・元貞を襲撃した事件を発端として,陸奥守源頼義と戦うに至った(前九年の役)。57年9月,頼義が〈銫屋(かなや),仁土呂志(にとろし),宇曾利(うそり)〉3郡(岩手県北部,青森県東部の地)の俘囚(ふしゆう)を味方に引き入れて挙兵させたとき,これをとどめようとして赴き,伏兵の襲撃を受けて流れ矢にあたり,鳥海柵まで戻ったが,そこで死んだ。
執筆者:大石 直正
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平安後期、奥羽の武将。俘囚長(ふしゅうちょう)。奥六郡の司。忠頼(ただより)の孫、忠良(ただよし)の子。初名頼良。奥六郡に編成された俘囚たちは、古代蝦夷(えぞ)の抵抗の伝統を、心の奥深く伝えた人たちである。彼はこの使命感のもと、北に「俘囚の国」を独立させるべく、前九年の役(1051~1062)に立ち上がった。古代から中世への転換を、北の辺境から呼びかける大戦であった。鬼切部(おにきりべ)(宮城県大崎(おおさき)市鳴子温泉鬼首(なるこおんせんおにこうべ))の会戦では陸奥守(むつのかみ)藤原登任(なりとう)に大勝したが、北の与党安倍富忠(とみただ)が、源頼義(よりよし)の勧誘に応じて離反したとき、これを鎮めるため出兵、負傷、鳥海柵(とりうみのき)に没した。
[高橋富雄]
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(朧谷寿)
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?~1057.7.26
平安中期の陸奥国の豪族。忠良の子。はじめ頼良(よりよし)と名のったが,源頼義との同訓をさけて改名。安大夫と称する。俘囚(ふしゅう)長として奥六郡の支配権を掌握し,衣川を越えて南下をはかり陸奥国守藤原登任(なりとう)と対立,これを破った。後任の国司源頼義に従ったが,1056年(天喜4)戦闘となり,翌年,俘囚を味方に誘おうと鳥海(とりのみ)柵に赴いたところを討たれた。
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…ところが同年権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞の人馬が何者かによって殺傷される事件がおこり,源頼義がこれを頼時の子安倍貞任のしわざと見て罰しようとしたため,頼時は貞任をかばって反乱を起こすにいたった。翌57年7月安倍頼時は鳥海柵(岩手県金ヶ崎町)で戦死したが,その後は貞任が一族を率いて戦い,同年11月の黄海(きのみ)(岩手県東磐井郡)の戦では大勝を得るという勢いだった。この戦況を転回させる契機になったのが,出羽国の俘囚長清原武則の参戦である。…
…1051年(永承6)陸奥守,53年(天喜1)鎮守府将軍を兼ねる。当時陸奥に勢力をふるい代々の国司に反抗していた安倍頼時は頼義の着任と同時に帰順,しかし頼義の任期が満ちると56年,両者の間に争いが起こった。そのため朝廷は頼義に安倍氏追討を命じ陸奥守に再任。…
※「安倍頼時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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