紀州の道成寺伝説における男女の主人公の名。愛を誓った旅の僧に裏切られた女が,憤怒の果てに蛇身に変じ,男のあとを追って道成寺に至る。女人禁制の寺に逃げ込み,鐘の中に隠れた男を,鐘ごと瞋恚(しんい)の炎で焼きつくしたというのが,道成寺説話の骨子である。女の純粋な情熱の激しさというテーマの普遍性・永遠性をもって,この説話は古来多くの日本人に愛好され,おびただしい文芸作品を生み出した。
道成寺説話の文献に現れる最も早いものは,長久年間(1040-44)に沙門鎮源の撰した《大日本法華経験記》に載せる〈紀伊国牟婁(むろ)郡悪女〉である。ほとんど同じ内容の説話が《今昔物語集》にも入っている。その内容は,女の愛欲心や怨恨の念が成仏の障りになることを説き,最後に法華経の功徳によって成仏するを得たとする仏教説話である。この段階では,いまだ安珍・清姫という人名は登場せず,男は廻国修行の熊野詣の僧,女は紀伊国牟婁郡の空閨をかこつ寡婦とのみ記されている。男の身分は,この説話を持ち歩いて伝播した〈語り手〉を暗示している。それは,諸国をめぐって熊野の霊験を説いた山伏修験の徒であったと思われる。能の《道成寺》は,上記の道成寺説話の後日譚として構想されているが,ワキの語りとして,この説話を語る。ここでは,女は〈まなごの庄司の息女〉,男は〈奥州より熊野詣の山伏〉となっていて,固有の人名は現れない。黒川能に残った《鐘巻》は《道成寺》の先行作と思われるが,この点については同様である。鎌倉時代の末に虎関師錬の撰した《元亨釈書(げんこうしやくしよ)》には,はじめて男の名が〈鞍馬寺の安珍〉と出る。しかし,女は依然として〈紀州牟婁郡に住む寡婦〉とあるばかりである。室町中期の制作と想定される《道成寺縁起》(絵巻,道成寺蔵)は,男を〈奥州から熊野詣の若僧〉,女を〈牟婁郡真砂の清次庄司の娵(よめ)〉と記す。同縁起の異本《賢学草子》(根津美術館蔵)になると,男を〈三井寺の僧賢学〉,女を〈遠江国橋本の長者の娘花姫〉と固有の名がそろうが,安珍・清姫ではない。道成寺伝説そのものは古いが,安珍・清姫という1対の主人公の名は中世以前の文献には見いだせず,意外に新しいもののようである。浄瑠璃《道成寺現在蛇鱗(うろこ)》には,〈廻国山伏姿の安珍〉と〈紀州真子の庄司の娘清姫〉の名で脚色が行われており,近世以後はもっぱら安珍・清姫の伝説として固定して普及した観がある。幕末の文化年間(1804-18)には,《安鎮清姫略物語》の板本も作られて,これが道成寺縁起とみなされるに至る。そして,《紀伊国名所図会》によれば,〈清姫腰掛石〉や〈清姫草履塚〉の存在が記されており,こんにちも道成寺の本堂には安珍・清姫の座像が安置してある。
→道成寺物
執筆者:服部 幸雄
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伝説、物語の男女の名。紀州(和歌山県)道成寺(どうじょうじ)の縁起に由来する。奥州白河(福島県)の山伏安珍は、紀州熊野権現(ごんげん)に参詣(さんけい)の途中、真那古(まなご)(または真砂(まさご))の庄司の家に泊まり、その家の娘清姫に恋され、これを避けるためにだまして出立する。怒った清姫はすさまじい勢いであとを追い、日高川(または切目川)へくると蛇体となり、川へ飛び込んで泳ぎ渡る。安珍は道成寺へ逃げ、釣鐘(つりがね)の中にかくまわれるが、蛇体の清姫は炎を吐いて鐘を焼き溶かし、中の安珍を焼き尽くしてしまう。この物語は、女の執念の悲劇として戯曲の好題材となり、謡曲『道成寺』に仕組まれたあと、歌舞伎(かぶき)舞踊としては「道成寺物」という一大系列を生み、人形浄瑠璃(じょうるり)でも『日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)』『道成寺現在蛇鱗(げんざいうろこ)』など多くの作品を生んだ。
[松井俊諭]
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…1359年(正平14∥延文4)領主の源万寿丸の発願で梵鐘が作られたが,この鐘は天正年間(1573‐92)豊臣秀吉が法華宗の京都妙満寺に移し,今この寺に現存する。近世の寺領はわずか5石だったが,江戸後期には江戸や京都で本尊の千手観音像や縁起絵の出開帳が行われ,また安珍・清姫の物語が盛んに上演されたので,道成寺はますます庶民の間で有名となった。いまも縁起堂で絵巻を使って参詣者に絵解き説法が行われている。…
…その後,道成寺の僧が法華経を書写供養し,両人は天人となって成仏する,という内容である。一般に,安珍・清姫の話として知られているが,道成寺本には主人公の名はない。同様の話は,古く《本朝法華験記》や《今昔物語集》に見えており,また後の道成寺物と称される浄瑠璃,歌舞伎等に引きつがれた。…
…日本の芸能,音楽の一系統。紀州の道成寺伝説を扱って安珍・清姫を登場させるが,能の《道成寺》の影響を受けているものが多い。単に《道成寺》と称するもの,題名中に〈道成寺〉の語を含むもののほか,清姫が蛇身となって日高川を渡り道成寺へ安珍を追うことから〈日高川〉を題名に含むものもある。…
※「安珍清姫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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