小中村(読み)こなかむら

精選版 日本国語大辞典 「小中村」の意味・読み・例文・類語

こなかむら【小中村】

  1. 姓氏一つ

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「小中村」の解説

小中村
こなかむら

[現在地名]佐野市小中町

はた川の左岸に位置し、南東は堀米ほりごめ町。暦応元年(一三三八)六月一八日の小野寺通氏譲状(小野寺文書)に佐野庄内「小中郷」とみえ、当郷などの地頭職が顕通に譲られている。その後、連通・通業・朝通へ代々譲られ、小野寺氏の重代相伝の所領と意識されていた(応永二七年一一月二〇日「小野寺通業譲状」同文書)。宝徳二年(一四五〇)五月三日の小野寺朝通言上状(同文書)にも「譜代本領」として当郷の名がみえる。

元和四年(一六一八)の小山藩の検地帳(篠崎貞一郎文書)では「小中村」「小中庄」とみえ、田八二町九反余・畑五五町二反余、屋敷は蔵屋敷を含む七二筆で四町三反余、浄蓮じようれん寺の除免屋敷一反余があり、名請人は御蔵屋敷・浄蓮寺を除き一〇九。慶安郷帳では田高八四三石余・畑高五五五石余、若狭小浜藩領。


小中村
こなかむら

[現在地名]東村小中

小夜戸さやど村の北方に位置。袈裟丸けさまる山の谷水を集めて南流する渡良瀬川の支流小中川(鹿生川)流域の村。全村森林に覆われている。銅山あかがね街道が通るほか勢多郡根利ねり(現利根郡利根村)へ抜ける根利道がある。小中川上流に架かる追付おつつけ橋はこの道の橋。寛文郷帳によると高九六石余(畑方のみ)。江戸後期の御改革組合村高帳では家数六一。明治一〇年(一八七七)頃の民業は、男は農・桑業六八戸、農の傍ら炭焼を営む者二〇戸、猟師一五、駄送業一〇戸、木挽一五戸、女は農間に養蚕・製糸・縫織に従事。


小中村
こなかむら

[現在地名]里美村小中

里川の上流域に位置し、南は大中おおなか村。村を南北に縦貫する棚倉たなぐら街道から保内ほない(大子地方)へ通ずる主要道は、当村を起点西境猪鼻いのはな峠を経由する。文禄三年(一五九四)太閤検地では、南の大中村地区と合せた一帯小里中おざとなかノ村と称した。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「小中村」とみえ、同二一年の御知行割郷帳によると村の大部分は松平壱岐守の知行地であった。

一八世紀後半になると穀物商を営む者が現れ、その多くを生瀬なませ地方(現大子町)から買入れていたが、天明初年にこれを他地区に切替えたため、販路を失った生瀬農民が小中村の三軒の農家を襲った。


小中村
こなかむら

[現在地名]大網白里町小中

池田いけだ村の南方に位置し、小中川の上流域を占める。枝郷の平沢ひらさわ村・かどさく村・宮崎みやざき村は寛永期(一六二四―四四)に分村したとされるが(上総国町村誌)、その後も小中村のうちとして扱われる場合もある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千二八四石。慶長一六年(一六一一)の検地帳(吉田家文書)には前記枝郷は字名として記載されている。元禄郷帳では枝郷は別に高付されており、小中村は高四一九石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では枝郷を含み高一千一六二石、家数九二、旗本逸見・原田・千本・石原・権太領。


小中村
こなかむら

[現在地名]安土町小中こなか

常楽寺じようらくじ村の南東平地に位置し、北は下豊浦しもとようら村、東は上豊浦村。集落は村域の北端にある。安土城時代には、一部が同城下町の南端に組込まれ、鉄砲てつぽう町の地名が残る。寛永二年(一六二五)旗本新見領となり(新見文書)、同領で幕末に至る。寛永石高帳では高三三二石余。慶安二年書上によると田二一六石余・畠屋敷九三石余、永荒二一石余。元禄七年(一六九四)には中山道武佐むさ宿(現近江八幡市)の助郷となり(久郷文書)、勤高は村高に同じ。文化七年(一八一〇)には一部が休役(二〇ヵ年)となっている(蒲生郡志)


小中村
こなかむら

[現在地名]富山市小中

熊野くまの川右岸に位置し、南は下熊野村。中世は熊野保のうちに含まれていた。応永三四年(一四二七)六月一五日の足利義持御教書(永源師檀紀年録)によると、京都建仁寺塔頭瑞応ずいおう庵領の「越中国熊野保内小中村」などが再安堵されているが、これは同四年一一月一七日の建仁寺の火災によって証文が紛失していたことによる。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高三九八石余、田方二六町三反余・畑方二反余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高二九一石、免四ツ三歩、小物成は野役二四匁・鮎川役二匁。


小中村
こなかむら

[現在地名]綾部市故屋岡こやおか小仲こなか

上林かんばやし川右岸の山麓、若狭街道沿いに位置する。村の西南方で支流古和木こわぎ川が合流。東は枝村の神塚こうづかを経て光野みつの村、西は川原かわら村。

中世は上林庄の地。地名は天文年間(一五三二―五五)の勧進奉加帳(光明寺文書)に「小中 山本方」とみえるのが早い。


小中村
おなかむら

[現在地名]日高町小中

志賀しが村の東にあり、東は高家たいえ村、南は小池おいけ村。「続風土記」は「人家志賀谷の尾と高家谷の尾の間にあり、故に尾中の名あり、小中と書す仮字なり」と記す。慶長検地高目録によれば村高六八二石余、小物成二斗九升四合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑五六町五反余、家数九三で内訳は本役二八・半役二二・無役三二・大工一・庄屋一・年寄八・ありき一、人数三九四、牛三八、馬一八。


小中村
こなかむら

[現在地名]篠山市小中

みやまえ村の東にあり、篠山川支流のつじ川が流れる。正保郷帳に「小中村」とみえ、田高一三八石余・畠高二一石余。元禄郷帳では波々伯部ほほかべを冠称する。「丹波志」では波々伯部庄のうちで、高一四三石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では新村組で、家数二四・人数一〇一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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