改訂新版 世界大百科事典 「遣渤海使」の意味・わかりやすい解説
遣渤海使 (けんぼっかいし)
728年(神亀5)から811年(弘仁2)まで約80年余にわたって日本から渤海へ派遣された13回の外交使節。渤海は698年旧高句麗領の大半を拠点とする高句麗人が各地の靺鞨(まつかつ)人を支配下に置く形で自立したが,当初より唐の冊封(さくほう)を受け,渤海郡王を称したのみでなく,西北の突厥,南の新羅に取り囲まれたきびしい国際環境にあった。727年渤海使の初来航の意図は,このような情勢下で新羅を背後より牽制するために日本と結ぶことにあった。これに対して日本は翌年送使を付して初の遣渤海使とした。これ以後日本と渤海の使節による国交は,その時期・性格上2期に分けることができる。(1)第1期(727-811) 728年第1回の使節にみられるように,渤海の使節に対して日本から送使が派遣されるもので,遣渤海使13回中10回は送使である。また758年(天平宝字2),761年(天平宝字5)両回の使は,759-764年ころの渤海主導による藤原仲麻呂政権の新羅征討計画を推進することを目的とした。こうした日本と渤海の政治的目的を主とする外交は,日本の対新羅政策同様,渤海に朝貢形式を要求するものであるが,渤海は対日本交渉の歴史的根拠として高句麗の後継国意識を示しつつも,朝貢国の姿勢をとって日本に同調することは一度もなかった。(2)第2期(814-919) 新羅征討計画以後,唐・新羅などとの関係の安定をみた渤海は毛皮・人参・蜂蜜などの土産品をもたらし,代りに絹・絁(あしぎぬ)・綿・糸など繊維製品を獲得するという貿易中心の交流に移った。811年の渤海使送使を最後に遣渤海使は終わったが,渤海はその後も滅亡直前の919年(延喜19)まで組織的な使節団を一方的に送り続け,第1回以来計34回にのぼった。その間日本は渤海に,798年(延暦17)には6年に1度,823年(弘仁14)には12年に1度の来航を要求,貿易制限を図ったが,渤海は在唐日本人留学僧との連絡などを口実に頻繁な使節派遣を行い,872年(貞観14)日本も平安京での交易活動を公許せざるをえないほどであった。
→遣新羅使 →遣唐使
執筆者:鈴木 靖民
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報